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都忘れ 1
昼間の陽射しが緩み、朝晩が冷えるようになってきた。
神田川沿いに並ぶ柳がさわさわと心地良く風に揺れ、遠く連なる山の稜線に目をやれば、ちらほらと赤や橙に色付いている。
日が傾き、神田川沿いの柳原土手に並ぶ古着屋も皆とっくに店仕舞いをした頃。
そのうちの一軒、「紅堂」と大きく文字を染め抜いた布を看板にした店の奥に、ぼんやりと明かりが灯った。
紅堂の主である新見真白が店の奥の部屋で、陽を灯した菜種油の小皿をそろりと行燈の中に収める。そこへ、煮物や漬物の皿を乗せた盆を手に女が入ってきた。
盆を置いて茶碗を取り上げ、飯櫃から冷めた飯をよそって、沸かしたお湯を回しかける。冷や飯もこうすれば温かく食べられるから、寒くなってくる時期の定番だ。
向かい合って食べ始めたところで、思い出したように真白が口を開く。
「そうだ、お蔦。明日はちょいと仕入れに回ろうと思ってんだ。店は閉めようと思うんだが、お前はどうする」
野菜の煮物を摘まみ上げて問うと、もぐもぐと口を動かしていた蔦は首を傾げた。
「そうだねえ。普段しないようなところを掃除するのもいいけど……おっ母さんの様子でも見に行ってみようかねえ」
「ああ、そういや、お前がこっちに移ってからそろそろひと月になるか」
幼馴染の蔦は随分長いこと店を手伝ってくれていたが、ひと月前に晴れて夫婦となり、一緒に暮らしている。
以来、いつでも顔を見に行けるという気安さからか、一度も帰っていなかった。
「ついでにゆっくりしてくりゃいい。おっ母さんもお前がいなくなって寂しい思いをしてるかもしれねえ」
真白が真面目に言うのに、蔦は声を立てて笑った。
「そんな気弱な人じゃないけどねえ。狭い長屋も広く使えるって、のびのびしてるんじゃない」
蔦の言い様に、真白も笑った。
夕飯を済ませて蔦が器を洗いに裏の井戸へと出て行き、真白は辺りを見回しながら、そろりと「お公家さん?」と呼びかけてみる。だが、返事はない。
上にいるのだろうかと梯子段を上がって覗き込んでみるが、見当たらない。
「……お公家さん。實親、いねえのかい? ……どこに行ったんだ」
真白は眉を寄せて首を傾げながら梯子段を下りる。
自身の手首に目を落として、そこに絡まる数珠をそっと撫でた。
「……こいつがここにちゃんとあるんだ。そう遠くへ行けるわけもねえが……」
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