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すいません、取り乱しました。
犯人は若い男でした。
服やズボンが血で汚れていて、手に大きなナイフを持っているのを除けば、とても穏やかな顔をしていました。
え? ああ……そうですね…………目の前に草原があって、その向こうに長い間帰って無かった自分の家が見えている感じ……なんてどうですかね、はは……。
ああ、すいません。
もう……この先は話したくなくて、その――ええ、判ってます。ここをわざわざ紹介してもらったんですからね、話します。話しますよ。
まあ、私はその、震えが止まらなくなってました。
心臓の鼓動も、速いなんてもんじゃなかった。それに合わせて、体が震えている感じでしたね。
私がいた通りは、ビルの間ですから少し陰っていたんです。それが、雲で太陽が隠れたのか更に暗くなる。
犯人が一歩こちらに踏み出す。
革靴か、おろしたてのスニーカーだったのか、かつんと大きな靴音が響きました。
汗が目に入って、瞬きをしました。
それで気がついたんです。
犯人はこっちを見ていなかった。
通りの真ん中に立って、遠くを、遥か遠くを見ているようなんです。
薬の所為だったんでしょうね。
でも、服は血の染みだらけ。
もし何か音を立てたら、あの顔がこっちを向いて、私に焦点が合って、数秒後に私の血が服の新しい染みになるかもしれない。
そんな妄想――いや、あの状況だったら予想でしょうか、そういった物が頭の中に次から次へと産まれて止まらなくなっていました。
でも、落ち着け、犯人はこっちに気づいていない。
だから、じっとしていれば――
そう思った時に、公園の出口に子供が現われたんです。
ああ、と俺は心の中で大きく呻いた。
やはり、そういう話だったか。
いつからなのかは知らないが、ここは『そういう悩み』を吐露する場所として有名だったらしい。
海と森の間、崖の奥の寂れた境界の教会。最寄りの公営駐車場から三十分も歩くここが何故存続しているのか? その答えがこれなのだ。
俺がそれを知ったのは、ここに赴任してきてからだった。前任者が体を壊したから、という説明だったが、成程、俺もその道を順調に歩んでいる。
こんな告白を聞いたら、酒を飲まずにはいられない。
「……神父様?」
「……聞いていますよ。公園の出口に、お子さんがいたんですね? 続けてください」
「はい……公園から出て来たんでしょう。気がついたら、犯人の後ろに立って、こっちを見ていました」
昨日の酒がまだ残っているってのに、またこんな話を聞かされなきゃならないのか……神よ、いるのなら、あなたが代わりに聞いてくださいよ……。
「私は――助けようって思ったんです……」
「……ええ」
「焼き台の影から飛び出して、クレープを返す小手で犯人のナイフと渡り合って……その間に子供に向かって『逃げろ』と叫ぶ。子供が逃げたのを確認したら、犯人を押し返して、急いで逃げる――そんな事を考えていたら……」
俺の中を、ぞくりと嫌な冷たさが通り抜けた。
「……もう一人……もう一人、子供が公園の出口から出て来たんです」
俺は目を瞑った。
告白をしている彼はここにいる。そして、何かを後悔し続け、ここで告白をしている。その意味するところは火を見るよりも明らかだ。
「その子は、両手を後ろにして、何か考え事をしているかのようでした。
私は――私の足は動かなくなっていました。
子供二人を、助けるには一体どうしたら――
ふっとスマホに目が行きました。
14時丁度です。
また犯人の方に目が行きます。彼は私にも、後の子供達にも気づいていません。
鼓動が更に速くなります。もう、心臓なんか関係なく、血が体の中を轟音を立てて流れ狂ってるみたいでした。
吹き出す汗を拭って、そこで気がつきました。
子供達はこっちに歩いてきてるんです。
そこで、さ、更に気がつきました。
『返り血は体の正面にしか付いていない』。
当たり前ですよね? 私はその事実に気がつき――もう、息もできなくなってて、ああ、くそっ、今も――だから、だから、声を出したら、犯人の注意をこっちに向けたらと考え、いや、今足が金縛りみたいな状態だから、逃げられないと考え、警察はまだかと通りの向こうに目を走らせ、犯人がゆっくりと歩いていて、子供達が早足で、ああ、公園はきっと酷い事になっていて、一刻も早く家に帰りたいんだろうな、だから早足なんだなと考え、子供達の顔が近づくにつれ、涙を流したような痕があるのに気がついて――」
「落ち着いて! あ……その、落ち着いてください……」
思わず大声を出してしまい、俺は頭を下げた。向こうからこっちは見えていないと言っていたが、今は視線を痛いほど感じる。
格子の向こうの闇が震え、嗚咽が聞こえ始めた。
慰める言葉があるのだろうか。
勇気づける言葉があるのだろうか。
それでも、俺は言わなければならない。本当にどうしようもない常識的な考えを言わなければならないのだ。
「お子さんたちが亡くなったのは、あなたの所為ではありません」
闇が沈黙した。
ぐじゅり、と鼻をすする音が一度聞こえる。
「そして、あなたの足を掴んでいたのは悪魔ではありません。それは――人として致し方ない事です。生者は等しく、自分を大切に思うものです。そこから踏み出すのは勇気の他にも色々な物が必要なのです」
「……例えば、どんなものでしょうか?」
「難しいですね。信仰です、と言いたいところですが、私があなたの立場に立ったなら、やはり同じく動けないような気がします」
「……神父様もですか? やはり、動けない?」
「そう思います……」
俺は目を瞑り、痛む頭を振り、声を絞り出した。
「私だって、絶対的に神を信じているかと問われれば、首を縦に振りきれません。良き人であろうと努めておりますが、聖人には程遠いのです」
「そうですか……」
「はい。ですので力及ばず、詭弁、気休めと言われても致し方ないと思いますが、あなたの足が動かなかったのは、悪魔の所為でも、あなたの所為でもなく、お子さんたちが亡くなったのは――」
「神父様は一つ間違っております」
俺ははっとして、言葉を止める。
指が十本、闇から染み出すように突きだし、格子を掴んでいた。少し力を籠めれば、それは外れてしまいそうな感じがした。
告白者は俺よりも後に告解室に入り、待っていることになっている。だから顔は見ていない。なのに、闇の向こうに、格子のすぐ近くにそれが見えるような気がして、俺は俯いた。
怖い。
なんとしても、その顔は見たくない。
俺はなんとか震えを悟られないように、声を出した。
「何が――何が間違っているのでしょうか? 教えていただけないでしょうか?」
沈黙。
突き刺すような視線が更に強くなる。格子に押し付けられた顔の、真っ黒な穴のような目が、闇を垂れ流しながら俺をじっと見ているのだ。
「子供達は死んでいません」
「…………は?」
「神父様は――あの事件の詳細を知らないのですね……ああ、そういえば報道規制があったんでしたっけ……」
「どういう――」
「私は――時計を見たんです」
「……時計を?」
「ええ。14時からちょうど40秒、私が焼き台の陰で動けなかった40秒――その永遠の40秒の間に子供達は犯人に追いついたんですよ。
追いついてしまったんです」
なに?
一体何を言い始めたんだ?
「子供の一人、後から出て来た子が後ろに回していた手を前に出します。その子は大きなブロックを両手で隠して持っていたんです。
その子は突然駆けだすと、犯人の右足のひざ裏にブロックを打ちつけました。うわっという声を上げ、犯人が倒れました。
もう一人の子がポケットから何か光るもの――多分、カッターナイフだと思うんですが――それを出すと、足を抑えて振り返った犯人の顔に切りつけました。
犯人は悲鳴を上げ、ナイフを落として顔を抑えます。
その側頭部にブロックが打ちつけられました。
酷い音がしました。ぼくっと湿った固い物がへこむ音ですよ。
はは、犯人は倒れましたよ。凄い勢いでね。多分、意識はもう無かったと思いますよ。あの子たちは怒っているようでしたよ。怒って――もう、正気じゃないように見えました。人間じゃないように見えました。二人はしゃがみ込むと、ブロックを何度も振り下ろし、カッターを何度も振るいました。血が飛び散り、犯人の頭がひしゃげ、身体が痙攣し、子供達の顔に返り血が飛び散り、私は小便を漏らし、ああ、なんで出て行かなかったんだ、出て行ってれば、あの子たちはきっとこんなことをやめ――――」
静かだった。
告白者はいつのまにか話し終えていたらしい。
俺は何も言えずに座り続けていた。
酷く暗い嵐にもみくちゃにされたような気分だった。
「……私は――」
告白者は言葉を止めた。
答えが返ってこないのを、俺はもう何も喋れないのを悟ったようだった。
やがて告白者は、それでは失礼します、と短く言うと告解室から出て行った。
俺はしばらくそのままで座り続けたが、酷い喉の渇きを覚え、転がるように外に出た。
開け放たれたドアの向こう、海と森の間の境界を辿って告白者が帰っていくのが見えた。
彼の足を、あの時40秒止めたのは、一体何だったのか。
彼は命を永らえた。
だが、二人の子供が人であることをやめてしまうのを見過ごしてしまったのだ。
永遠の40秒。
なんてものを聞かせやがる。
俺は聖堂の正面に掲げられた大きな十字架を見上げた。
長く深いため息のようなものが口から勝手に漏れる。
俺も多分、その40秒を永遠に思い起こし続けることになるのだろう。
だから、多分――今夜も飲まずにはいられないのだ。
了
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