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「すべては俺のためにあるんだ、今日も明日も明後日も。だから俺が何しようとお前らには関係ない、すべては俺の自由なんだ」
俺は目の前の審査員に訴えかける。
「オッケーです。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
中央に座っていた審査員は資料をまとめながら口を開く。
「西口悠雅くんだっけ」
「はい」
「このシーンはもっと自己愛を表現したほうがいいよ。もっと自分を完全に肯定し、自分を愛している様子を表現しないと……。結果は後日連絡を入れるので本日は以上です」
「ありがとうございました」
「はい、おつかれ」
今回もダメか。結果は後日連絡を入れるとか言っていたがこの調子だと合格するとは思えない。はぁ。深いため息が漏れる。夕日が鮮やかに差し込んでくるというのに、心はまったく晴れない。ポケットから財布を出し、自動販売機に数枚のコインを入れる。あたりが出たらもう一本、今日も当然のごとく当たらない。プルタブを開けて中に入っていた炭酸飲料を一気飲みする。夕焼けは缶に反射し、いい塩梅にほてっている。
空き缶をゴミ箱にめがけて投げるも、ふちに弾かれてカランという子気味良い音とともに地面に転がった。
「だめじゃない悠雅ったらポイ捨てしちゃって」
そう言って空き缶を拾う影が一つ、どこまでも細長く伸びていた。
「大丈夫、次もあるから」
今日がオーディションだということは彼女に伝えてあったのだが、ここまで悟られてしまうと、それは甚だ情けない。
「もう次なんてないよ。きっと何回やっても同じだよ」
そうだ、俺のなかではもうすでにある程度の諦めはついているのだ。
「そんなことやってみなければ分からないよ」
長い影は俺の隣に落ち着いた。
「俺には才能がないんだよ」
「そんなことない、才能は有るけど発揮できてないだけだよ」
「そんなのどっちでも同じだろ」
「違うよ。違わないように見えてその二つは全然違うの。私なんて演じるどころか最後までセリフを覚えられる自信もないよ」
「セリフを覚えることぐらいなら、才能なんてなくても努力さえすればできるよ」
「その努力ができないんだよ」
「優里奈だって、就活の時は優等生を演じてるんじゃないの」
少しばかり、皮肉な口調になってしまう。
「そんなことないよ。私は元から優等生だよ」
優里奈が笑いながら、しかし少しだけ向きになって言い返す。その姿が愛らしいのでもう少しだけいじってしまう。
「講義を最前列で爆睡した挙句に、教授からの『尾上さん起きてますか』っていう問いかけに『私は鮭のおにぎりが大好きです』って答えた優里奈が優等生だっていうのか」
優里奈の顔が赤く染まる。夕日の朱とは別の赤に。
「だって『おにぎりはおいしいですよね』って聞こえたんだもん」
「なんで経済学の講義でおにぎりが出てくるんだよ。食い意地が張りすぎだろ」
「私だってあの時は死ぬほど恥ずかしかったんだからね。悠雅はお腹を抱えて笑ってたし」
「いや、だってあれは面白すぎたんだもん。俺も眠かったけど眠気が一気に吹き飛んだよ」
それから二人で声を上げて笑った。過去の思い出に身を委ねながら、今を忘れてただただ笑った。今を忘れて、過去にすがっていたかった。しかし現実は何よりも身近にある。
「ところでこの前受けた企業は内定もらえたの」
「うん、これで私は四月からOLだよ」
俺が足踏みしている間に周りはどんどん進んでいく。
「俺もどっかの企業を受けてみよっかな」
「それって演劇は諦めるっていうこと」
「ああ、きっともうとっくに潮時なんだと思うんだ」
だから俺も早く現実を見なければ。
そうすると彼女はうつむきながらこう言った。
「私は悠雅に演劇を続けてほしいよ。きっと、舞台で演じている悠雅は今の何倍もかっこいい。それに私は悠雅が本気で演劇に取り組んでいる姿を見るのが好きなの」
こんなに優里奈が思ってくれるとはきっととても幸せなことなんだ。なんだか申し訳なくなる。
「別にそれで飯を食っていけなくても別の関わり方もあるから、それに本職にしなくとも趣味かなんかで続けていくと思う」
ここらへんが妥協点であろう。
「ごめんね押しつけがましくて。でももう一つお願いがあるの。私の前だけではありのままの優雅でいてほしいの」
「あいにく俺は不変な日常をを演じるのが得意なんだ」
「それならいつもありのままってこと」
「そうかもな」
きっと根本的に役者には向いてないのかもしれない。日常から外れた役がうまく演じられないなんて。
「そろそろ帰るか」
うん、と彼女はうなずく。日はすっかり沈み、あれほど長かった影も闇と化した。
彼女を送り届けてから自宅までは徒歩で二十分ほどである。いつもならまっすぐ帰るのだが、やたらと家には帰りたくなかった。どうも現実に戻される感じがして、今の俺はそれをすごく痛く感じた。とにかく無心で、この闇に化すように歩いていたかった。自分だけがおいていかれる様、影となって追従することすらできない今の自分、一人ぼっちの帰り道はやたらと自分と向き合うことを強いた。だから俺は無心になる必要があった。とにかく心を空っぽにして、その空白にこの闇夜が入り込めばいいと思った。
「おい、そこの君。何を元気なさそうに歩いているんだよ」
背後から声が聞こえる。
「俺のことでえすか」
「当たり前だ。ほかにこの場に誰がいるというのだ」
今まで気づかなかったのだがどうやら道にも迷ってしまったらしい。そして目の前には白衣を着た一人の男が壁にもたれかかりながら煙草を吸っている。
「どうしたんだ。見るからに元気がないぞ。まるで世の中に絶望するかのように」
「そんな風に見えてますか」
「ああ、悲観主義もいいところだ」
「どうしようもないことだってあるんですよ」
「でも、もっと楽観的に生きなければ、人生は面白くないぞ」
「それさえできれば苦労はしませんよ」
夢が叶ったのなら、悩みなどないのだ。
「ところでなにがあったのか、俺でよければ聞くぞ。今日は少し気分がいいんだ」
「それはどうしてですか」
「月が少し欠けているからだ」
いまいち理解に苦しむ。
「それは重要なことなんですか」
「そうとも。欠けているからこそ美しいんだ」
「そうなんですか」
どうやら俺には理解できない領域の話らしい。
「ああ、今の俺には欠けている月が美しく映る。きっと満月に美を見出すという選択も新月に美を見出すという可能性もあったはずだが、俺はどちらでもないこの欠けた月を美しいと思うようになったんだ」
「それはいったいどうしてですか」
「それは神様の気分次第だよ」
「それならば満月に美を見出す自分を夢見たことはないんですか」
「ないな。それは今選ばれている選択肢を捨てるということになるからな。俺はまだ自分にそれほど絶望はしていないんだ」
「それはうらやましいです」
「君は今とは別の選択肢を選ばれたいのか」
「できることならそうしたいです」
そうなんだ、夢さえ叶えば。
よし、それならいいものを紹介しよう。そう言って彼は体を壁から離した。するとすぐさまついて来いと言わんばかりに足早に歩きだしていった。
彼は足早にある建物へと向かった。そこには巨大な機器が所狭しと並んでいた。
「立派な研究室ですね」
「ああ、そうだろ。自慢の一品たちだ」
「俺が入っちゃって良かったんですか」
「いいも何も俺の研究室だから問題ねえだろ」
「他の研究員さんたちの迷惑になるかもしれないですし」
「ここに他に誰がいるって言うんだよ」
確かにここは機械でにぎわっている反面、人影は一つも見つからない。
「もともとここに俺以外の研究員はいない。だから、まあ、気にするな」
「えっ、ってことは一人で管理してるんですか」
「そうだよ。素晴らしい発明をして特許を取りさえすれば、ここを維持する程度の金は入る」
これだけの発明を一人でしたとはすごすぎる。この人はいったい何者なんだ。
「それに、あんまり人となれ合うのが好きじゃないんだよ」
それで一人だということか。孤高の研究者という呼び名が良く似合う。純粋にかっこいいと思える。
「で、本題だ」
そう言って彼は一つの装置を取り出した。
「この装置はこの世界と平行世界の人格を入れ替えることができる装置だ。平行世界とはこの世界とそっくりそのままのようで一部だけ神様が違う選択肢を選択した世界のことを言う。つまりこの装置を使えば今は選ばれていない可能性が選ばれた世界に活けるのかもしれない」
「つまりは現実では叶わなかった夢が叶った世界ってことですか」
「そういった世界に行ける可能性もある」
何と夢のような話ではないか。
「この装置は二つのことができる。一つはさっきも言ったとおり平行世界に移動することだ。ちなもにこれは制約があって平行世界にいられる時間は三分だけだ。それ以上もそれ以下もできない。まあ、もし移動した先の世界の技術がこの世界よりも勝っているのであれば、途中で帰ってきたり、はたまたこっちの世界に戻らずに向こうの世界に永遠に居続けることができるかも知れない。二つ目の機能は平行世界の自分と対話することだ。これは向こうの世界の君が眠っているときしか使えない。こっちのほうも制約時間は三分だ。どうだ、使いたいか」
「はい、お願いします。俺を平行世界に連れて行ってください」
「そうか、それならば行ってこい」
俺は受け取ったヘルメット型の装置を頭にかぶり、スイッチを入れた。
***
視界が開けると俺は殺風景な一室にいた。長机に椅子が何脚か置かれ、壁には鏡が取り付けられていた。全身は明らかに私服ではないものをまとっていた。
果たして成功したのか。この世界は果たして本当に俺の夢見た世界なのか。
ふと机に置かれた台本に目が留まる。
急いでそれを手に取り、役者の欄を確認する。その中から西口悠雅の名を探す。主人公の弟の友人役。名前もない役に俺の名前があった。重役ではないが役者としての俺の名前がそこにある。それはつまり役者としての出発を果たしたということだ。ついで主演や監督の名前を見る。どちらも良く聞き知った名前だ。
どうやら成功したとみてよさそうだ。
しかし喜びと悲しみは表裏一体だ。
なぜ元の世界の俺はだめでこの世界の俺は選ばれたのか。才能という面では二つの世界に差はないはずである。故に残った要因は努力ということになるが、元の世界の俺がそれを満たしていなかっただなんて思いたくはない。決してさぼってたわけではないのだ。
では神様の気まぐれだというのか。なんともやるせない気持ちである。
コンコンと扉をノックする音がする。どうぞ、と答えると馴染んだ顔が覗く。
「おっ、久しぶり」
彼は演劇仲間の松前だ。演劇を通して知り合い元の世界でも結構仲のよい友達の部類に入ると思う。ただ元の世界では彼だけが認められたせいで、いささか疎遠になっていた気もしなくはないが。
「久しぶりって昨日もあったじゃないか」
そういえばここは俺の知っている世界ではない。こっちの世界では昔と変わらない関係なのであろう。
「そんなことより、はい、これ差し入れ」
「ありがと」
受け取ったビニール袋の中には緑茶とおにぎりがいくつか入っていた。
「とにかくこの舞台、俺の分まで頑張ってくれよ。きっと優里奈も見ててくれるだろうから」
ああ、頑張るよ。そう言いかけたタイミングで視界が暗くなり始めた。
***
「どうだったかい、パラレルトラベルは」
「素晴らしかったです。ありがとうございました、博士」
「博士なんて堅苦しい名前は性に合わねえから秋田さんでいい」
「秋田さんありがとうございました。夢が実現した世界に行くことができました」
「そうかいそれは良かった」
あの体験は本当に素晴らしいものだった。まさにあの場所にいられることは長年の夢で、目標だった。しかしただ一つ欠点を挙げるならば、あの世界に居続けることができないという点だ。
「秋田さん、向こうの世界に居続けられるように開発するのにあとどれくらいかかりますか」
「さあな、そんなこときっと神様にしか分からない。もしかしたら平行世界の俺に聞けば別の答えが返ってくるかもしれないが」
じゃあ平行世界の俺に調べさせるか。
「秋山さん、今度は平行世界の自分と話せる機能を試させてくれませんか」
「いいけど、この機能を使うためには向こうの世界の君が寝ている必要があるぞ」
「ええ、ですからそれまでこの欠けた月を見ながら昨日の満月の話でもしませんか」
「それはいい。それなら一晩中でも話ができそうだ」
それから時計の長針は五周ほど回った。
「そろそろ行ってもいいですか」
「ああ、おそらく向こうの君も眠っているだろう」
そう言って秋田さんは機械を操作し始めた。
「先に言っておくが向こうの君との対話で何かあっても俺は責任取らないからな」
「はい、大丈夫です」
「それじゃあ準備はいいか。まあ無事に終わることを祈ってる」
「はい、行ってきます」
視界がだんだんと暗転し、どこからかノイズが聞こえた。
***
意識が戻った時、俺はまるで夢の中にいるようだった。明らかに夢を見ていると分かっている夢、そんな印象を受けた。言葉を変えるのならばコンピューターの中の世界。立っているはずなのに床に触れている実感はない。周りはむしろすがすがしいほどに殺風景で物寂しく、その寂しさは向かいに立つ俺を際立たせた。
「はじめまして、でいいかな」
こんな局面でも平行世界の俺は腹立たしいほどに冷静だった。
「お前は、お前は平行世界の俺なのか」
「ああ、そうとも。やけに理解が早いな」
「あいにくこちらの世界にも似たようなものがあるからな」
「それだけで納得できるのかよ。そんなオカルティックなことを」
「現にお前はその技術を使ってここにいる。それに俺は少し前にお前と入れ替わっていてその時に秋田さんからこの技術についても聞いている」
「まあそうだけどよお」
「それに欲の深い俺ならもし平行世界で同じ発明がされて俺の世界に飛んでこれるようになったらためらわずに飛んでくると思ってた。ゆえに心の準備も整ってた」
まあ、迷惑だったことには変わりないんだけど、と付け加える。
予想以上に腹立たしい。さすが俺なだけあって、すべてが読まれている。俺の全てが、笑った時に上がる口角の角度も、走り終えた後の乱れた息のリズムも、すべてが彼の既知の領域にあるようで、気味が悪く腹立たしかった。
「それで、わざわざ俺を呼び出しておいて要件は何だよ。まあ、おそらく俺はその依頼に対してノーまたはいやだで返すと思うが」
予想以上に手ごわい。これではどうにも聞きづらい。
「とりあえず諦めがつくように少しだけ教えてやろう。こっちの世界ではまだ民間には普及してない。危険なものとしてすべて政府が管理している。だからお前はお前の目的を達成する以前にそのために必要な機器に触ることすらできない」
どうやら詰んだらしい。結局俺は美しい月が存在すると知ることしかできなかった。
「さあ、俺は話したんだからお前のことも教えろよ。お前は何を持っていて、何が欠けたんだよ」
彼は一歩、また一歩と高圧的にも歩み寄る。
もういいさ。どうせ手のひらの上で転がるなら、少しでもその手を噛んでやる。
「俺には演劇が欠けている。その俺に持っているものなんてあると思うのか。全てを演劇のためにささげてきた俺から演劇を取って、何か他のものが残るとでも言うのか」
もはや自虐的で笑えてくる。目の前にいるのが俺なのだからどれほど醜態をさらしても構わないであろう。
その時の彼の目は俺を嘲るのではなく、憐れむのでもなく、ただ少しだけいぶかしげに、して少し寂しそうに見ていた。
再びノイズがかかる。そろそろ約束の三分が経ったようだ。
「最後に一つだけ聞いてもいいか」
彼が再び口を開く。
「優里奈は今も元気なのか」
一瞬間時が止まった。
「ああ、元気にしてるけど」
けど、なぜそんなことを聞くんだ。そう聞いてやりたかったけれどもそれを口にする前に視界は暗転し、意識は手放された。
***
再び視界は明るくなる。
「向こうの君との対話はうまくいったかい」
「なかなか難しいものですね、自分と話すことは」
「確かにな。俺もやったことはあるが、互いに互いを知りすぎててなんとも心地が悪かったよ」
「自分のことを知るためにはいいものかもしれませんが」
言ってみてその言葉に深く納得がいく。今回分かったことはきっと俺自身の醜さだけであろう。
「そういえば君が向こうに行っている間にスマホが鳴ってたぞ」
確認するとメールの着信が二件あった。一件目はオーディションの不合格通知で、もう一件は優里奈からだった。その着信を見て無性に俺は彼女にこの不思議なパラレルトラベルの話をしたくなった。まあ自慢話などと同じである。そう、俺は単純でかつ貪欲なのだ。
「今日はこれで帰ってもいいですか」
「ああ、好きにすればいい。俺はここが家のようなものだからずっとここにいるが」
「また来ます」
「楽しみにしてるよ」
最後におやすみなさいと言って俺は研究室を後にした。
翌朝俺は優里奈に電話を掛けた。
「優里奈、君は平行世界を信じるかい」
「急にどうしたの」
「例えばこの世界と同じつくりをしていて、しかしながら少しだけ違う世界があるとしよう。そして、その世界ではこの世界では掴めなかった夢を掴んでいるとする。果たして優里奈はその世界に行きたいかい」
俺は肯定を意味する返答を待っていた。つまるところ共感を得たかったのだ。そして少しだけ自慢をしたかったのだ。
「うーん、私なら行きたいとは思をないかな」
しかし返答はそうではなかった
「その世界では叶わなかった夢が叶っているのだとしても、行きたいとは思わないの」
「うん、だって理想通りではなくともこのでも世界も十分幸せだもん。それに平行世界の私はきっと現実の私よりも努力した結果としてその地位を得ているのだから、それを奪ってしまうのはなんか理不尽な気がするの」
「奪うも何も平行世界だろうと何だろうと俺は俺だし、優里奈は優里奈なのだから、奪ってるってわけでもないと思うけどなあ」
「それはきっとコインの裏表に似ているんだよ」
「どういうこと」
「今の私たちはコインの片面に生きていて、そのコインはすべて自分のものだと思っているけど、実はそのコインには裏面もあって、そっちでも同じように私たちがいるってこと」
「難しいね。いまいち理解できないよ」
「ごめんね。うまく言えなくて」
「うん、また考えとくよ」
彼女はこれからバイトだと言って電話を切った。その沈黙で俺はさっきの会話を反芻した。
「こんばんは、秋田さん」
いつでもいいと言われたのでつい言葉に甘えてこんな夜中に来てしまった。時計の針はちょうど真上で重なる。
「おう、君かい。今日はどうしたんだい」
「もう一度あの装置を使わせてくれませんか。向こうの俺に相談があるんです」
「もちろん構わない。好きに使ってくれ」
「ありがとうございます」
秋田さんは先ほどからせわしなく手を動かしている。どうやら今日は俺の相手をする気はないらしい。
昨日も使ったので操作は完璧に覚えている。操作を完了し装置をまとう。そしてノイズが聞こえ始めた。
***
「またかよ」
向かいに立つ俺は唐突毒づいた。
「まだ俺の世界に来たいのかよ」
「そうだ、あの世界を諦めれるはずがない。あの夢の実現した世界を」
「あのなあ、俺の世界もお前が思ってるほど理想の世界ではないぞ」
「夢が叶ってもまだ不満だって言うのか」
少しくらい幸福を分けてくれよ。
「一体お前はなんで俺だけが役者になれたと思ってるんだよ」
「そんなの時の運だろ。俺だって数えきれないほどの努力を積み上げてきた」
「たしかにそうかもしれない。ただ、一つだけ俺とお前には、正確にはこっちの世界とそっちの世界には違いがあるんだ」
彼の表情は少し苦しそうにも見えた。決して触れたくないものに勇気を出して触れた時のあの苦しみだ。
「こっちの世界には優里奈はいない。二年前事故で亡くなったんだ」
頭が真っ白になった。その白にさっきの言葉が際限なく響く。
「優里奈がいなくなったことによる寂しさに、苦しみに押しつぶさっれないために俺は演劇に打ち込んだ。西口悠雅でいたくなかった。優里奈のことを考えないで済むように誰か他の役を演じ続けた。俺の中から優里奈への喪失感に苦しむ西口悠雅を追い出して、全く知らない人を演じ続けた。だから役者になったのは、なれたのは西口悠雅ではない。その入れ物なのだ。そしてこの、お前から見た成功は、皮肉にも優里奈の死をきっかけにしているのだ」
もはや思考は追いつけない。優里奈と夢と、天秤はどっちに傾くんだ。
「結局俺もお前も不完全ってことだ」
目の前の俺が再び口を開く。
「そして、欠けているからこそ美しく映ってしまうんだ」
わかってはいるが納得も妥協もできない。
「じゃあなんで俺は完璧な理想を得られないんだよ。努力しても努力しても、不幸なしには幸福を得られないだなんて、一体俺は何を理想に持てばいいんだよ」
理論で納得できずに、ついつい声を荒げる。
すると向かいの俺は初めて感情的にしゃべった。
「そんな理想通りの世界なんて得られるわけがないじゃないか。俺はそれを身をもって知った。役者になるには西口悠雅は邪魔だったんだ。それを突きつけられてそれでも理想を追い求めるなんて誰ができるんだ。何かを得るために大切なものを失えば、たとえ何かを得たとしてもそれは理想なんかじゃない。だから上を向いて歩いていて足元をすくわれるなんてことがないように、自分の足元にまだ地面が続いていることを意識して生きるほかないんだよ。そうすればかつての理想は地面を踏みしめた先にある幸福に辿り着いたときに、思い出話として語れるんじゃないか」
きっと今持つものを大切にしろということだ。そうすれば別の形の幸福に辿り着くことができると。
「そろそろ時間のようだ。自分と話をするなんてなかなか良かったよ。でも、もうここには来るな。俺の世界に干渉するな。俺は俺の世界の中で幸福を見つける。だからお前も」
「言われなくてもそうするよ」
「ああ、頼んだ。それと俺は以外に西口悠雅の人格が好きらしい。こっちの世界では自分で殺してしまったが」
「それはつまるところ、一種の自己愛ってことか」
「ああ、そうかもしれないな」
ノイズが走り、視界は光を失っていく。
「これからもがんばれよ、俺」
「ああ、そっちの俺もな」
最後に少しだけ笑いながら闇に染まった。
***
あれから俺は秋田さんにお礼を言って研究所を後にした。
家に帰って布団にもぐり、新しい幸福の形について思いを馳せた。
まず第一に浮かんだのは優里奈の笑顔だった。そして次々に今まで思っていたものとは別の幸せに気づいていった。その世界の俺は役者ではなかった。それでも俺は幸せそうで、こんな世界を理想にしてもいいと思った。
そうして俺は幸せに包まれながら眠りについた。
***
「やあ、初めまして、俺」
「こちらこそ初めまして」
今度は俺が呼び出される番のようだ。
「今から俺はお前を奪う」
「ともすればお前から見れば俺は理想というわけか」
「ああ、その通りだ」
目の前の彼はどこか過去の自分を連想させた。
「悪いけど今の俺はきっとお前が考えているほど理想ではない」
「おいおい、これ以上に俺は何を求めているって言うんだい」
「俺だって十分欠けている。きっとそれはお前も同じだ」
俺は一呼吸おいて話を続ける。
「俺はいったい何を持っていて、それでいて何が欠けているんだ」
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