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「おい、お前ら、俺たちは南に逃げるぞ」
工事現場で作業服を着た一人の若者が唐突に言う。
「急にどうしたんだよ」
となりにいた若者は先ほどの言葉を扱いかねた返答を返す。
「だから俺らは南に逃げる、いや、渡るんだよ」
そこにいた四人の若者はだれもがその言葉の意図を探っている。
「おい、大丈夫か、聡一、頭でも打ったのか」
「俺はいたって正気だ」
「じゃあさっきの言葉は何だったんだ」
一息置いて、聡一は答える。
「お前らは思わないのか。俺らはただただ搾取されるだけの存在だってことを。この国は俺たちのような若い下級労働者には不親切なのだ。俺たちの働いた分はほとんど国家やお年寄らに持っていかれてしまう。おかしいと思わないのか、まともに体を張って労働してない奴らに俺たちの努力が搾取されてるんだぞ」
「いやー、おかしいというか、そりゃしょうがねーだろ」
「おいおい優磨、それなんだよ、俺らが諦観的だからいけねえんだよ」
「んなこと言われても世の中っちゃあそういうもんだろ」
「なに年寄ぶってるんだよ。だから俺はそんな世の中に早く別れを告げたいんだよ」
「なら勝手にしろ。とにかく俺を巻き込むんじゃねえ。俺にはこれしか生きていく道はねえんだよ」
「これは甚だ洗脳だな。お前は世の中にみせられているだけなんだよ。誰が俺たちを負け組だと決めた。それは俺らじゃねえだろ。世の中が優秀な人間という共通善を決めて、俺らは教育によりそれを刷り込まれただけだろ。なのにどうしてそんなものを信じるんだよ」
「その世の中に従わねえとここでは生きていけねえんだよ」
「ああ、そんなこととっくにわかってるよ。だから俺はこう言ったんだ、この国から逃げないかと」
四人は総じて押し黙った。次の一言があまりに重さを持ちすぎて誰も口を開けないのである。
「いや、でも……」
「この国では雀の涙ほどの俺たちの能力でも微生物よりは大きいだろ。この国を出ればきっと俺らでももう少しはのし上がれるんだよ」
賛同すべきか否か、四人は黙然とする。
「だいたいどうして俺たちを救ってくれねえコミュニティーにこだわるんだよ。俺たちに必要なコミュニティーはこんな拘束的なもんじゃねえだろ、ネット上の世界だろ」
聡一の顔は怒りか、憎しみか、それとも苛立ちかに染まり、工事現場の電灯に照らされる。
「たしかにそうかもしれないな」
ようやく一人が賛成の意を見せる。根負けしたと言わんばかりでもあるが。
「重吾なら分かってくれると思ってた」
賛同した彼、重吾は、そのでかい体のどこからくるのか分からないほどの器用さで舗装したアスファルトの隅っこのほうにやたら上手な小動物のイラストを描き、投稿したことで注目を浴びている人物だ。SNSでの彼は現実の彼とは別人のようでもある。ちなみに描いた小動物はいろいろな都合によりすぐに消してしまうのだが。
「でも南に行くって具体的にはどうするんだよ。向こうに行ったら仕事も家もないじゃねえかよ」
「そこんところはどうにかなる。今の俺らの全財産でも向こうでならある程度は暮らしていける。それに向こうではこうした肉体労働もまだまだ盛んだ。俺ら程度の技術でも向こうなら技術職として扱われるかもしれない。それに俺たちの仕事が機械にとってかわられるのもまだ先のことだ」
しかしこれには四人ともが綺麗に飲み込めたわけではなく、先ほどまで沈黙していた優磨が批判する。
「そんな確証もない話についていけるか」
視線は侮蔑にも値する。
「優磨、そもそも確証のある人生ってなんだ。俺たちの人生ってゆうのは未知にあふれたものじゃないのか、そんな決まりきった人生なんてそれこそ機械的だろ」
「それにいつかは立ち上がらないといけない。いつまでもこの社会に飼いならされていてはいけない。俺たちは人なのだ。機械ではないんだよ」
しばらく間をおいて。さらに二人が賛同した。
ただ一人、優磨だけはまだ納得のいかない表情である。
「それじゃあ、俺たちの家族はどうするんだよ」
優磨が問う。
「基本的のは置いていく。でも場合によっては連れていく。そこらへんはそれぞれのさじ加減で。しかしながら全員を連れて行けば、結局状況が好転しないことくらい優磨でも分かるだろ」
「それはとんだ親不孝だな」
「変革に犠牲はつきものだ」
「でもそれならお前らだけでやればいいだろ」
「いや、それでは意味がない。俺たち下級労働者が一斉にこの国を出ることによってその偉大さを国家にたたきつけてやるんだ。だからみんなで一斉に動かなくては意味がないんだ」
しばらくして、やはり彼にも思うことがあったのか優磨の表情も少し和らいできた。
「しょうがねえ、俺もついてくよ。その渡りに」
ようやく場はまとまった。夜空は少しばかり赤らんでいた。
***
『立ち上がれ、下級労働者たち。自由を求めて新天地へ』
このスローガンはたちまち広まった。そして相当な人数が立ち上がった。
政府はこの事態を受けて、強制的に労働者をとどめようと画策する次第だ。
それに対して労働者たちは「自由の侵害だ、俺たちは言いなりになって動くシステムなんかじゃない」と猛反発している。もはや一触即発の事態だ。
「聡一、お前の望み通りになったな」
聡一は波止場ではるか南を見つめていた。優磨もそれに並ぶ。
「望んだのは俺一人じゃない。これはみんなの望みだったんだ。そうでなければこんなにたくさんの人が動くことはない」
「そうかもしれないな。それならばお前はおおよそ起爆剤といったところか」
「ああ、そんなところだろう」
二人の間にはただ波の打ち付ける音だけが響いた。
未練がないわけではない。新天地にすべてをもっていくことは出来ない。おいていかなければならないものがある。おいていかなければならない人がいる。その空隙を波音はじわりじわりと侵食した。
「そろそろ行くか、優磨」
出発の時が迫る。
「そうだな」
二人は船着き場に向う。二人の財力ではどうにも飛ぶことは叶わなかった。それでもどうにか彼らは渡ることができそうだった。
船着き場には彼らのほかにも似たような人影か多数見受けられた。
船に乗り、甲板に出る。そして鳥を一羽はるか高くに臨む。
きっと鳥になりたかったのではない。ましてや風りなりたかったわけでもない。
それでも西の空に憧れて、南の海に思いを馳せ、東の山に別れを告げ、北の風に背中を押された。
鳥でありたかった。風でありたかった。そして解き放たれていたかった。
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