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もやい結び
それはひとひらの雫がこぼれ落ちたような言葉だった。
車内の真新しいプラスチックと座席の匂いに包まれて、運転席でハンドルを持つコウを見た。もう何度見たか分からない後頭部を眺めて、出会った日からとんでもなく遠く、暖かい場所に来てしまったかのように思う。
「人って紐みたいだよな」
彼が漏らした言葉が英語の歌詞、耳触りがいい歌声に混じる。
「紐?」
後部座席から私が声を出すと、彼は音楽のボリュームを下げた。デクレッシェンドを掛けたようにスムーズに音が萎む。彼の踏む車のブレーキ、アクセルと同じ。気付いたら停まっていて、不意に外を見ると景色が走りゆく残像に変わる。
「そう、紐。みんな何かにぶら下がっている。俺も、お前も」
ぶら下がっている、その言葉を口の中で繰り返して、私は隣のチャイルドシートに乗った小さな手のひらに、自分の人差し指を入れた。きゅうっと暖かい小さな柔らかいものに包まれる。産まれて、まだ日の浅い小さな体。でも、しっかりと私の指を握った。
「ソウタ、寝てる?」
バックミラー越しに彼と視線が合う。
「うん、寝てる。初めての車だから、私がドキドキしてる」
「俺も。ソウタは幼いから、分かんないだろうけど、こっちが緊張するよな。俺もハンドル持つ手、汗びっしょり」
コウは信号待ちで車を停めると、ハンドルから手を離して後ろの私に見えるように両手を翳した。手のひらの汗が滲みでて、車内に注ぐ光に反射する。
「うわっ、ほんとだ。その割に、顔にはあんまり出ないね。いつもどおりで運転してるように見えたよ」
私が茶化すと彼は振り返って、いや、めちゃくちゃ緊張してるから、と言葉を飛ばした。彼の斜め後ろに居る、自分に良く似た分身のような息子を見た。目尻が下がって、頬が緩む。その表情にえも言われぬ暖かい気持ちが広がる。寒い日、家に帰って、炬燵に悴んだ両足をゆっくりと入れたような暖かさ。
コウと知り合った時、こんなに会話をする人だとは思わなかった。感情を表に出すのが苦手で、人に壁を作っているようにも見えた。デート先で知らない人に話しかけられているのにも関わらず、一切気が付かないような、人に対して鈍いところが目立っていて、頼りないなぁ、なんて思っていた。
「あ、今日はさ、退院祝いも兼ねて、一旦、サユとソウタを家に降ろしたら、晩飯、良いもの買ってくるわ」
コウはそう言って、見慣れた住宅展示場とコーヒー専門店の角を北に曲がった。もうすぐ家に着く。
「うん、ありがとう。よろしく」
私が返事をすると、左横に丸まったように座っているソウタが眉を寄せた。この眉間のシワ、コウにそっくり。思わず笑ってしまう。
「何か食べたいものある?」
彼は夕食の段取りに思考が向かっている様子。
「マグロが食べたいかな。鉄分いっぱい含まれてそう。私が食べた栄養が母乳を通して、ソウタにいけばいいけど」
「じゃあ、絶対マグロだな」
私の食べたい物にすぐに乗っかる彼。
無口でこだわりが強いのかと思っていたけれど、一緒に暮らしてみると彼は案外そうではなかった。私に「生活をすり合わせる」と言う事を教えてくれたのは彼だった。
「あ、さっきの「人は紐」って、ヒトとヒモの言葉の響きが似てるからって言うのもある?」
私がその質問をした時に彼は自宅の前に車を止めた。ハザードランプを点灯させ、後続車の通過を待つ。鼠色のサイディング、丁寧に継ぎ目を埋められたコーキングはまだ白い。屋根には太陽光パネルが搭載され、光熱費の節約に一役買っている。
「いや、それだけじゃなくて、結婚したら、結ばれるって言うし」
「あ〜なるほど。じゃあ、私とコウは今、結ばれてるわけだ?」
私が揶揄うようにそう聞くと、彼は目尻を下げて、口角を少しだけあげた。一緒に少し伸びた襟足が揺れた。
「それに、いろんなことがあると結びつきが強くなるとか言うし」
ふんふん、と相槌を打つ。彼は一度自分の考えを話始めると、それに集中してそれ以外は少し疎かになる。私は彼の次の言葉を待つ。
「紐の結び方に、もやい結びっていうのがあって」
「へぇ、初めて聞いた」
「テントを立てる時に紐が解けないようにしっかりと結ぶ時の結び方。結んだ紐と紐同士を引っ張れば引っ張るほど、解けるんじゃなくて、しっかりと締まるような結び方なんだ」
キャンプが趣味な彼の比喩。インドア派なのにいきなりキャンプに出発したりする。本を持って、大自然の下で読むって、すごく矛盾してる。だけど、とても彼らしい。理論と感性と、体験を踏まえた言葉。引っ張れば引っ張る程しっかりと締まる、それは少し怖いような気もする。支え合えれば良いけど、依存してしまえばそこから抜け出せないような。二度と解けない結び目に絡まってしまったような。
「だから…」
彼は私を振り返った。さっきと違って緩んだ顔じゃない。真剣な表情。瞳の奥に静かな意志がある。
「サユがソウタを産んでくれた。それからの日々をソウタと一緒に過ごして、俺たちは親になるわけだけど」
「そうだね」
「俺は父親で、サユは母親」
「そうだね」
また、後続車が追い越していった。ここで車庫に車を入れれば?と言うのは野暮だろうな。
「だから、お互いにしっかり結び目を確認して、解けないようにしよう」
「うん、絡まらないようにもしようね」
私の言葉にコウは、そうだな、と返事をして、
「絡んでも、解いて、また結び直せば良い。で、ソウタにも結び方を教えてやろう」
と、答えた。
いつか解けて、糸になって、バラバラになって、繊維も残らなくなる日が来ても。
このひとひらの雫の言葉は、私の線維奥深くにゆっくりと染み入った。
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