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one day ―five years ago―(五年前の或る日)
春空に桃色の花びらがひらりひらりと舞いあがり、躍りながらたゆたう水面に浮いた。川のせせらぎ、煌めく水面、水の底は石の輪郭をはっきりと確認出来るほど、透き通っている。
気象庁がこの町に春一番の訪れを告げてから、一週間経った今日、川べりの染井吉野は満開を迎えている。傘状に広がった枝の先、うす紅色の花弁を隙なく咲き誇らせている。
うららかな風が里帆の頬を撫で、花びらを遠くへ連れてゆく。それらはさめざめと降り注ぎ、四方へ散る。
里帆の肩までのまっすぐな黒髪はそよそよと揺れ、ぱっちりとした目を陽の光に向けた。そして、隣で繋いでいる手を強く握り直す。
並んだ恭佑の身長は里帆より頭ひとつ分高く、170センチ程。彼の茶髪は陽に透かされ、風になびく。白いシャツに風が滑り込み、まるく膨らむ。紺色のメガネの奥の目を細め、散ってゆく花びらを見つめる。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」
小学校教諭の良く通る声が、霞む空に抜ける。
「どんな意味?」
舞う髪を耳にかけ、里帆は聞き返す。
「こんなにのどかな光が差している春の日に、どうしてあれほど慌ただしく、落ち着いた心もなく桜の花は散っていくのだろうか、って意味」
恭佑はゆっくりと里帆を見やる。
「桜は儚いって事?」
「一文で言うと、そうだな」
「恭佑は国語が得意かもしれないけど、私は理系だから短く言ってくれないと分からないよ」
「スーパーのレジ打ちの、理系」
恭佑はじゃれるようにそう言って、ははは、と明朗に笑った。
軽い口調に、里帆は同調した言葉を返す。
「あ、バカにした? 今、全世界のレジ打ちを敵に回したよ。レジが居なきゃ買い物出来ないんだからねっ!」
「里帆はすぐ答えを欲しがるなぁ。情緒がないよ。考える、って楽しみがあるだろ? 知らない事や分からない事がある方が楽しいときもある」
「知らない方が楽しい? 分からないとモヤモヤするじゃない。さっきのも昔の短歌? 詩? って、その綺麗な風景を言ったものなの?」
「そう、桜は儚いね。人の人生も……」
恭佑はそこまで言って、声を発するのを止めた。
「何?」
さっと人差し指を口に立て、静かに、と告げる。陽に薬指の指輪がきらりと反射する。
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