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食堂での朝食を終えるといったん自室に戻り、授業の用意を確認したら教室へ向かう。第一寮棟の副寮長を務める憲介の毎朝のルーティンにその日、一筋の変化が差した。
ドアのノブを回すと、真っ白い靴下の足もとになにかがぱさりと落ちた。小さく「中村憲介 様」と書かれた封筒を裏返すと、小さな字で栗原修一郎の名が書かれている。
数センチほど開いていたドアを勢いよく閉めて部屋に引き返し、開封すると、
『明日の夜二十時、使われていない北側の古い寮で逢えますか?
三階の談話室を開けてもらいます。
先輩と二人だけで話がしたいんです。」
小さく折りたたんだ紙にそう書かれていた。
『先輩と二人だけで』
たった三行の文面を何度も読み返しながら、頬がゆるりと柔らかくなるのを憲介は感じていた。その時、「急げ!」と廊下を駆けてゆく幾人かの足音と「廊下は走らない!」と注意する寮監の声が聞こえ、あわてて封をした手紙を学習机の上に置き憲介も自室を出た。
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学園では伝統的に、中等部の入学式典では高等部の新二年生が、高等部の入学式には高校の新三年生が、新入生一人に対して一人が付き添う形をとっている。担当する在校生には前もって新入生のクラスや氏名が明らかにされ、校門から続く桜並木で新入生を迎えると、広大な敷地内で迷うことなく各教室や式典が行われる体育館へスムーズに移動できるようエスコートする。新入生にとっては中学、高校という新しい環境へ漕ぎ出すにあたり、ときに行く手を指し示し、ときには共に悩んでくれる先輩との絆を作るきっかけになればとの願いが込められた伝統だった。
昨年の中等部の入学式で栗原修一郎に付き添ったのは中村憲介だった。栗原は他の生徒よりも早く、初等部の卒業式を終えた直後に、新年度より憲介が副寮長を務める第一寮に入寮していた。最初こそ、話しかけると恥ずかしそうにうつむくことの多かった栗原だが、二十センチほどの身長差をカバーするように常に目を合わせて話す憲介に打ち解けるのはそれほど時間がかからず、入学式の頃にはすでに仲の良い先輩、後輩の間柄になっていた。
栗原と同い年の弟がいる憲介にとっては、最初こそ弟の面倒を見るような感覚で接していた。が、入学からしばらく経った頃、地元の名士である栗原が学内で優遇されているのではないかという陰口がごく一部から聞こえ出したあたりから、それまでよりも栗原を気にかけるようになっていった。副寮長として、後輩には誰にも分け隔てなく接している。ただ、自室に栗原を呼んで二人だけで話をしたり、ときには「親にも言えない」という相談事を持ちかけられることも重なっていく中、いつしか栗原に対して特別な感情を抱き始めているのを自覚せざるを得なくなっていた。
男子ばかりの学校生活だったからという理由ではない。ただ、自分に心当たりがないわけじゃなかった。それでも、迷いに迷い、中学時代に高校受験へ向けた勉強がスムーズに運ばなかった時の苦しみさえあっけなく感じるほど、栗原への想いをどうにかして断ち切るべく、憲介は頭を悩ませた。
けれど。
アイボリーに淡いピンクを溶かした薔薇の花を思わせる頬と唇、切りそろえられた黒髪。不意に自分を見上げる時のまるで少女のような穢れのない表情。栗原修一郎という後輩を構成するそれらを想うだけで、身体中を恋慕の情が焼き尽くしてしまうかと思うほどだった。こんな己の姿を誰にも見せられない。一人部屋で良かったと心底思う夜は少なくなかった。
栗原との出会いから一年が過ぎ、憲介が三年に進級してまもなく、思い切って打ち明けることにした。中等部二年になった栗原は友人も増え、寮の中で孤立することもなくなっていた。それでも寮生活で栗原がもっとも信頼を寄せていたのは憲介で、それは憲介自身も分かっていた。
ある日の夕食時、それほど混雑していない食堂で、「隣に座ってもいいですか?」とトレイを持ち微笑む栗原を見た時、憲介はこれ以上自分の中に焦がれる想いを秘めておくのは難し過ぎることを悟った。その夜のうちに自室へ栗原を誘い、持てる勇気のすべてを振り絞って言葉にした。
「おれ、栗原くんを好きになってしまったんだ。きみのことを考えていると胸がいっぱいで、幸せなようで、でも哀しくて辛い夜もいっぱいあって。でも大好きなことには変わりなくて……ごめん。男同士なのにこんな……」
まっすぐに憲介を見つめる栗原から視線をはずし、言い淀んでいた憲介のだらりと垂れたほうの手を、不意に栗原が取った。
「先輩。最後まで、ぼくの目を見て話してください」
その瞳は憲介がよく知っている、くっきりとした輝きのある瞳だった。ぐっと音が聞こえるほど大きく唾を飲み込んだ憲介がやっと口にできたのは、「栗原くんが、好きです」の一言だった。それが先週のこと。
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