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寮では十七時から二十時の間に各自入浴や夕食を済ませ、その後は二十三時の点呼、在室確認までは自由時間になっている。高等部から学園にやってきた憲介は、北側の古い寮で実際に生活をすることはなかったが、管理者でもある教頭先生とともに寮の運営メンバーで自主的に清掃や棟内の見回りを引き受けている関係で、内部の構造は熟知している。昼間と違い、夜の時間帯であることがそう思わせるのか。めったに立ち入る者がないにもかかわらず、侘しさとは無縁で、むしろ建物全体に厳かな気配が漂っているように感じる。
栗原から手紙をもらうことも、こんなふうに呼び出されることも初めてだった。はやる気持ちを抑えながら三階の一番奥にある談話室の前に立ちドアを二回、ノックした。
扉の向こうからどうぞという栗原の声がしてドアを開けた瞬間、見知ったはずの室内が、見たこともない異様な空気で満たされていることに一瞬、声を失った。
一歩踏み出した足が絨毯敷きの床に貼りついたように身体が固まった。電気は通じているはずなのに室内は暗く、ランプの頼りない灯りだけがゆれている。フッという笑い声に続いて「先輩」と呼びかけたのは間違いなく栗原の声だった。いつも寮や、たまに出会う校内で憲介に呼びかける声音とはなにかが違ったけれど。
目を凝らすと、ひとり掛けのソファに脚を組んで座る栗原がいた。憲介の立つ場所から二メートルほど前方。脇には小さなガラステーブル。もう片方の脇には大きなソファ。背後にはベッド……だろうか。
「先輩を待っていました。よく来てくれましたね」
「あ、あぁ。栗原くん、あの、──」
単に室内が暗いという理由だけではない。のどの下あたりがぞわりとする感覚に、言葉が追い付かない。そんな憲介に呼びかける栗原の声は、いつもと何ら変わらないどころか、妙に落ち着いてさえいる。
「ねぇ、先輩。先輩はこの前、ぼくを好きだと言ってくれたでしょう。あれは先輩の本当のお気持ちですか?」
「も、もちろん。本気だよ」
何度も、何度も自分に確かめた、嘘偽りない恋愛感情だ。
「そう。神に誓って?」
「え……、あ、もちろん」
栗原がなにを言おうとしているのかが分からない。憲介は、自分の声が震えているのが分かった。が、この部屋の異様な空気にどうにも抗うことができない。ほのかな明かりの中で栗原の唇の両端が上向きにカーブし、
「疑っているわけじゃないんです。けど、それが真実なのか確かめたくて」
「確かめる……って、どうやって?」
栗原の唇がさっきのようにカーブを描き、指をパチンと鳴らす。それまで彼にばかり気を取られていて、栗原の背後に誰か──見るからに大人の男性である誰か――が立っていることに気づかなかった。その男の手が栗原に伸び、シャツのボタンをひとつずつはずしていく。
「え、あ、あの……ちょ、ちょっと待って」
憲介の頭は混乱していた。目の前にいるのは栗原本人であることは間違いない。ただ、自分がわずか数分前にこの部屋へ足を踏み入れてから、目の前で起こっていることが何なのか、栗原がなにをしようとしているのかがまったく分からない。こんな栗原を見たことはこれまで一度もなかった。
嘘だ、とようやく動いた両手で髪をかきむしるその間に栗原のシャツのボタンはすべてはずされ、ランプの灯のもと真っ白な上半身があらわになった。そこに誰のものか分からない男の手が、下劣な思惑を持って這いまわる。
思わず叫び出しそうになるのを必死でこらえる憲介の目に映る栗原の表情は、さっきまでと変わらない。それどころか、男の行為を愉しむように甘い柔らかな声で、「どうしたの? 先輩」。
そして、ハァッと息をついて背後の男にこう呼びかけた。
「ねぇ、先生? もっと、いつもみたいに強く」
そうして男の手を取りみずからの下半身へ導いた。なにかを口走りながら前かがみの体勢になり、栗原の左肩に手を乗せ薄笑いを浮かべた男の顔は憲介のよく見知った顔だった。
「きょ、とうせんせ……」
毛足の長い絨毯を敷いた床に、膝をつくように憲介は崩れ落ちた。栗原に「先生」と呼ばれた男が憲介を一瞥し、
「ああ。きみだったんだね。修一郎さんの言う先輩って」
栗原は端正な顔立ちをゆがませることなく、こちらの様子をうかがうような表情で男の行為を受け入れている。受け入れるというよりも……。憲介はたまらず立ち上がり、さっき閉めたばかりのドアに向き直った。その背中に栗原が一言、放った。
「こんなぼくでも、好き? ……せんぱい」
憲介は振り向かず、叩きつけるようにドアを閉じ、廊下を駆けた。
息が苦しい。呼吸が乱れているのが憲介自身にも分かった。溢れそうになっているのは嗚咽なのか、それとも嘔吐してしまいそうになっているのか。見間違いでも、聞き間違いでもない。つい今しがた自分が目にしたもの、耳にしたものは……。
栗原と、彼の背後に教頭先生がいた。二人があんなことを……。なぜ。信じられない。けれど、部屋を出る時に一瞬耳に飛び込んできた、うっとりするような、それでいてなにかをやんわりと拒むような甘い声。あの声は、間違いなく栗原の唇から零れ落ちたものだ。大人の男の手によって乱され、陥落させられる寸前の、あやふやに開いて濡れたような唇から漏れ落ちた声だった。
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