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「ああ、バイト行きたくねえ」  食堂でそう言ったのは太一だった。バイト仲間の女子高生と付き合っている太一は、俺たちの中でも一番あそこで働く時間を楽しんでいるのに。でも太一の気持ちはわかる。あの状況が続いているのなら。 「もっとひどくなってる」  溜息をついた亮介は、あの日午後からバイトだった。朝詰めたトイレットペーパーのラックが空になっているのを見て働く気が失せたと言っていた。  最悪だったのは次の日の入荷が運送の都合で通常の量しか入らず、ラックに大きくスペースが空いたことらしい。 「ほんとすぐに無くなったから、朝から並んでいた人に買えない人が出てな。たまたま午後についた臨時便の商品から『お一人様1個』になったんだ。もうそこからぎゃーぎゃー言われっぱなし」  太一も溜息をつく。 「もう転売もされてるからね」  黙って俺たちの話を聞いていた愛美がスマホを開けてサイトを見せてくれた。おなじみの通販サイトにトイレットペーパーが並んでいる。 「なに?これ、1800円って。税別380円の商品じゃん」  亮介が声を大きくした。 「転売」  愛美はなんでもないように答える。 「マスクなんて万だよ」  愛美がスクロールした画面にマスクのページ。一箱15000円の文字に俺と太一はゼロを数えなおした。 「需要と供給なんでしょ。今回のウイルスの件で品薄になっているから。それにほんとにマスクは中国製が多かったからね」  愛美が静かに言うのが不気味だった。 「いや、でもトイレットペーパーはあるじゃん。メーカーにいくらでも。あんな風に買わなければ普通にあるのに」  太一の言葉は最後の方の声が小さくなって独り言のようだった。 「これ」  そのとき、亮介が自分のツイッ〇ーのタイムラインに流れているひとつの投稿を見せてくれた。 『トイレットペーパー品切れの犯人はこいつ』そう書かれた誰かのコメントの下に写真、別の誰かのつぶやき。 (これから不足する製品はトイレットペーパー。中国製産だから入ってこなくなるよ。皆さん今のうちに購入しておいてね!) 「なんで写真?」  内容のバカバカしさに内容よりもそこが気になった。 「リツイートしたら犯人の思うツボだからでしょ」  天津飯をやっと食べ終わった愛美が手を合わせながら「ごちそうさま」と続けた。 「いや、信じないでしょ?しかもこんなたったひとつのツブヤキ」  本気でそう思った俺に愛美が首を振る。 「私たちが生まれるずっとずっと前に起きたもはや歴史上の事件のひとつ『オイルショックによるトイレットペーパーパニック』も、最初は関西のあるスーパーの販売コピーから始まったのよ。大元は通産省が第4次中東戦争を背景にして『紙の節約』を呼びかけたことが原因だけどね」 「通産省がケツ拭くなって言ったのか?」  ジョーク交じりの俺の質問を愛美が軽く無視する。 「あんたみたいな呑気な人が店の特売広告コピーの中に『紙がなくなる』って言葉使ったから、近隣の主婦が信じて数時間ですべて売り切れたの。その様子を新聞社が記事にしてそこから。でもどこにも嘘はなかったんだけどね、オイルショックのときのデマには」 「嘘はなかった?」 「そう、通産省が言った『紙の節約』もオイルの輸入量が減ることを見越しての注意喚起だし、店が出したコピーも特売製品が売り切れるって意味だったし、新聞の『あっという間に値段が二倍』って見出しも半額の特売製品が無くなって、店頭に並んだ正価のもののことだったらしいしね。嘘は無くても日本中の人がそのあとのデマに踊らされた」  まるで授業のような愛美の説明に、俺たちは目が点になっていた。 「それだけのことから全国でトイレットペーパーが無くなる心理状況がわからん」  亮介はそう呟いてからふと我に返ったようにもう一度呟いた。 「・・・いや、これでああなったんだった」  俺たちは亮介が見せたツイッ〇ーの画面を図らずに3人で見つめてしまった。 「でも今はマスコミがニュースやワイドショーで『これはデマだ』って繰り返してるじゃん」  自分でスマホを俺たちに翳しながら言った亮介に太一が首を振った。 「視覚と聴覚の問題かもしれんな」 「なにそれ?」  マスコミ業界志望の太一がコホンとひとつ咳払いをしてから俺たちを見た。 「目と耳から違う情報が入った場合、ほとんどの人は目で見たものが記憶に残る」 「なにか実験したの?」  愛美の目がキランと輝いた気がする。 「いや、本で読んだ」 「なんの?誰の?」  矢継ぎ早な愛美の質問に 「Dr.Mの『モテる条件』・・」  咄嗟に答えてしまった太一のしまった感満載の表情が笑えすぎる。 「確かに『デマです、トイレットペーパーは豊富にあります』って司会者が言ってる後ろに、空のラックの映像があるよね」  愛美がマジに返してくれたことに、太一がほっとしたのがわかってそんな表情がまた笑えた。  でも明日は午前シフトだと思うとやっぱり暗い気持ちになる。明日は何を言われ、何を求められるんだろう。
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