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山下町ライフはじめました
くっきりとした二重の目を細め、彼がほほえんだ。
「心配ありません。大丈夫ですよ」
聞く者を心酔させる、まろやかな囁き。にもかかわらず、その声は右から左、耳を素通りする。目下、得体のしれない代物に頭をおおわれた私は、それどころじゃないのだ。
「や、やめてください、お願いします……」
懇願。帽子状のかぶりものに手をかけると、彼も重ねてきた。全身がこわばる。低い体温が伝わってきただけでなく、至近距離に迫られたせいで。
「僕は、あなたを信じています」
って、どんだけ魅惑のフェイスで言われても、無理なもんは無理だよ。
涙がにじみ、後悔ばかりが駆けめぐる。ああ、私が誘惑に負けなければ。ふかふかのシフォンケーキさえ食べなければ。こんなことには――!
◇◇◇
こうして思い返しても、あのときの私の判断が正しかったのか、いまだに自信がもてない。実際のところ、それは世間からみて不正解だったのだろう。正直者が馬鹿をみるという言葉があるように、理不尽がまかりとおるのが世の常というのは若輩者といえどそれなりに理解もしている。
だとしても、職場のヒアリングで同僚がパワハラを受けているのをありのまま報告したのは、人として間違っていない気がするのだけれど。
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