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そして ふたりは ...
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「人肌恋しい、人の肌に触れたい、
人の体温を感じたい。
人肌の柔らかさを感じたい。」
「どうして、人に近づけないの、
子供たちの声が聴きたい。
眠っていたら、声が聴けない。」
一人じゃないと、
「病と闘う」ことは辛い。一人だったら、辛い治療から、自分勝手に逃げ出せる。自己判断で諦めることができる。
でも、自分を必要とする者が居るから、どんなに辛くても、闘うことから逃げられない。
Akoは、病に恐れをなして、自暴自棄にもなれない。
愛おしい、かけがえのない、大切な、大切な子供たちが居るから。だから、負けないためには、自分がどんな姿になろうが、たとえ、醜くなろうが、構わない。絶対に、この病気には負けられない。
でも、もし、本当は、病気でなかったら、
発病していないのに、告知され、辛い治療が行われていたとしたら …
✿.
自覚症状が無いのに、ある日、
突然、医者である夫から、病を告知された。すでにリンパ節転移もしている。
Akoは、衝撃が大きすぎて、
告知自体は全く疑うことなく、素直に聞き入れ、自分の躰を、自分で確かめることよりも、家族を想う気持ちが大きくて、すぐに、病と闘う決意をする。
Akoは、5年間、ただ、その事だけを考えていた。
夫はAkoの性格を、抜け目なく、ちゃんと理解している。
純粋で、正直で、裏表がない。そのような性格の者は、他人も、自分と同じだと思っている。Akoは、苦手な人はいても、人のことを疑わない。
Akoには医者の夫がいてくれたから、
治療は優遇され、夫の同僚の医師たちにも、我が儘を通し、自分が気の済むように、病と闘っていく。自覚症状はない。けれど、薬の副作用による障害は、厳しく辛いものだった。こんなに辛い毎日なのに、
夫が、医者だと、さらに、辛辣な境遇になる。
それを、Akoは分かってはいなかった。
夫は、Akoの想像以上に、賢い人だったのに。
✿❁.
不動産会社に勤め、
マンションギャラリーで、接客を担当するAkoは、子供を早くに産んで2人の息子がいる。夫は、私立の大学病院の勤務医で、外科の准教授、専門は消化器だ。
夫婦はそれぞれ違う職種の仕事をしているせいか、
社会人になってからの共通の友人は一人もいない。それに、お互いの仕事についても興味がない。二人の間に、「家族」とのことを取り除くと、夫婦なのに、どこを探しても、共有できるものはない。
この二人は、学部違いの、同じ大学出身だった。
Akoのサークル仲間の紹介で、知り合った先輩後輩で、この時の友人は、大学を卒業すると、疎遠になっていた。だから、二人の馴初めを知る者はなく、たとえ、夫婦関係がおかしくても、それを心配してくれる友人に、窘められることもなく、この夫婦は、学生時代から今でも、Akoにとっては迷惑な、当時の上下関係が続いている。
Akoは23歳で結婚した。
相手が医者ならば、将来だって経済的に困らないから、そのまま家庭に入るのも、善いのかもしれないが、せっかく、学生の時に宅建士の資格も手に入れたので、不動産会社に就職してみた。
社会人になったAkoは、
結婚してから、まだ、何年も過ぎたわけではないのに、二人の生活には、もう、幸せを感じなくなっていた。家庭内での、夫の先輩風を吹かせた態度、いや、医者という、社会人としても、自分の方が上だと自負している夫に、不満があった。
会社人として一年目。
新人のAkoが、仕事の段取りが悪く、どんなにか忙しくても、仕事柄、高額な金額が動く仕事の中で、少しの失敗も、許されない、緊張した、厳しく管理された職場にいて、
新人だからとの甘えも、けっして許されない極限状態にもがき、悩んでいる時にも、夫は、自分の方が、社会的に重要な、有意義な仕事に就いているとのことを前面に出し、自分の仕事の方が何倍も忙しく、過酷だと云うだけたった。
そんな、家庭では、
Akoは、職場と家庭の、どちらに居ても、息がつまる、窮屈さを感じていた。
そして、こんな家庭ならば、
仕事を持ち、一人でも生きていけるのであれば、夫から離れようとも考えたが、23歳のAkoは、想定外にも、突然お腹の中に宿った命のために、こんな生活でも続けていくことを決めた。
まだ社会人一年目、
Akoの同期入社の者たちは、ちゃんとした給料の使い方も、まだ分かってはいないのか、身体を気にして、誘いを断り続けるAkoを気にせず、毎日毎日、次の日の忙しさにも、体力を残そうとはせずに、それぞれ仕事が終わると、同期で固まって遊びに出ていく。
皆から離れる様に、
ひとり遅く出たAkoは「良いなぁ~」っと、呟き、お腹の子と一緒に反対方向の、自宅へ真っ直ぐ向かう。帰り路、自分で決めたことなのに、一人ぼっちの孤独感でイッパイ、イッパイになっていた。ただでさえ、妊娠中は、デリケートになることも多いのに。
そんな時にでも、夫は妻としてではなく、
Akoを妊婦とでしかみない。Akoの辛さも、妊娠中の、この時期にある、一過性のものとみるのだ。「何でも好きなようにヤ・ラ・セ・テ、いるだろう!」とか、「べつに、仕事をし・て・く・れと、頼んではいない!」とか、Akoを労わることはせず、自分の正当性を主張するかのような言い草ばかりで、微塵の優しさも感じられないほど、面倒くさそうに吐き捨てる。
毎日の通勤電車では,
具合が悪くなる。特急には乗れない。各駅停車に乗って、何度も、電車から降りた。会社は、遠い。
同じ会社の先輩ママは、
「生まれてからの方が大変なのよ」と、気に掛けてくれた。でも、今より辛いことがあるなんて、Akoには、想像できない。理解できなかった。
悪阻のために、体調が悪いのか、
ストレスの性なのか、その両方なのか、
Akoは、ますます追い込まれ、自分が分からなくなる。
一人目の子が産まれ、
一旦、仕事を休み、3カ月は家の中に居たAkoだが、愛おしい我が子と過ごす毎日よりも、すぐに会社のことが気になりだした。社会人になってから、まだ2年目、ようやく仕事を覚えたばかりだったこの時期、
子供が生まれたことは、
大きな出来事だが、充実していた仕事を失いたくはなかった。未だ、自分でお座りもできない小さな我が子を、自分の母に預け、躊躇うことなくAkoは仕事に復職した。
大学病院勤務医の夫の仕事が忙しく、
当直の日も含め、何日も、帰宅しなくても気にならない。
Akoは帰宅すると、
「自分の子」の顔を見られれば、それで良かった。
母と、赤ん坊と、Akoだけの生活が続く。
Akoは、仕事の愚痴を、何も分からないまま黙って、ただ聞き役に徹する母に向かい、ひとり言のようにブツブツ云い、それでも、仕事に疲れた日が続くと、ふんわりとした産毛も温かい、白桃みたいな我が子の頬に、その柔らかさを、分けてほしいかのように、自分の硬くなった額を当ててみたりした。
羨ましいほど深い眠りの中にいる、
安心しきっている、穏やかな寝顔に癒され、
その寝息をご馳走に、遅めの夜食を一人食べた。
それでも、
夫に満たしては貰えない故にできてしまった、目に見えぬ穴を埋めるのに、我が子ではなく、仕事を選んだAkoは、忙しさのあまり、搾乳を忘れ、母乳を出さずにいた。
そのために、胸がハリ、キリキリと痛む。
かなり、熱っぽく辛い、でも、自己流に、冷却ジェルシートを胸に当てて、病院にも行かず、医者である夫にも診せずに、痛みに耐えた。そのうち、Akoの母乳は出なくなった。
この頃、Akoの仕事は、
これでもかと、どんどん忙しくなり、
帰宅は、日付が変わる頃のことも幾日か続いた。
家庭内のことを任された母は、
黙ってAkoと孫の世話をし、娘のAkoを見守った。この無償の強い愛に、本当に、Akoは助けられた。Akoは、この母のおかげで、精神的にも安定し、なんとか、このままの生活で、落ち着いたかのようだった。
✿❁❀.
それから4年、
二人目の子をAkoは出産した。上の子は幼稚園に入った。
この幼稚園は、近くにある保育園よりもお迎えの時間が早い。
仕事をしていたAkoは、お兄ちゃんを、保育園に入れたかったが、母が同居していて、子供をみられる者が居るとの判断から、保育園には入れなかった。
けれど、下の子が乳児であるのに、
幼稚園の送り迎えや、幼稚園での数多い行事などにも対応するのは、年老いた母では無理があった。だから、これを期に、Akoは、毎日遅くまで勤務する仕事では限界を感じ、退職を決めた。
「私たち、マダマダじゃない、
自分の立位置を固めるまでは、
辞めなければ善いのにぃ!」
同期のマニッシュな S は、
自分の働き方をハッキリと決めているシッカリ者で、女性がその弱さを見せると、少し機嫌が悪くなる。
「えぇ~、Akoったら、
仕事、辞めるのぉ~」
ガーリーな R は、
表面上には、驚いたように見せた。
「あー、そうかぁ、
Akoは、
二人の子を持つお母さん、
だったな」
K はブッキラ棒に、まるで、
Akoのことを全て理解しているかのように言ってみる。
「まぁ~、ナァ~、
今辞めないとサー、
役が付いたら、この会社は、
家庭の事情じゃあ、
休むのだって、
休みにくくなるからナァ~、
このタイミングは、
まぁ、アリかなって、
気もするけれどサァ~」
Okunn は、
もっと悟ったように口をはさむ。
こんな同期たち、
Akoは今まで、あまり付き合ったことも無かったのに、最後には集まって、送別会を開いてくれたことは嬉しかったが、それでも、心のどこかが尖っていたのか、誰も本気で、引き留めていない様な気がした。
Akoは、同期の誰よりも仕事人間で、
一人ぼっちのまま、遅くまで会社に残り、職場では、自分のプライベートを表には出さずに、仕事の事だけに集中した、そんな、何かに憑りつかれたかような働きっぷりのAkoは、
皆よりも少し前に進み、チーフになる一歩手前だった。
だからAkoは、同期の誰も、脱落しないまま、この会社で、仕事を続けられることが、本当に羨ましかった。
そこからまた5年、
相変わらず家庭内ではあまり夫の姿はなく、母として不慣れなAkoは、ドタバタ、ジタバタの毎日で、あっという間に、時が過ぎていた、この年には、下の子が幼稚園に入った。
そして、上の子は小学生になっており、
自ら、下の子の面倒を良く見る、優しい、責任感の強い兄になっていた。
自分が風呂に入る時には、
弟を捕まえ、先ず弟の体を洗ってやってから自分の体を洗うことも、
誰かに教わることもなく始め、いつのまにか難なくこなす。
そうなると、年老いた母でも、
どうにか子供達を任せられるようになった。
Akoは、夫との関係では、
未だに続く上下関係に嫌気がさしていたままなので、
そこから逃げ出すように、また、外に出て、仕事を始めることにした。
「私だって、
外に自分の居場所が有って、
認められ、
必要とされる自分の仕事がある」と。
この時、運が良く、
我武者羅に頑張っていたことを覚えていた同僚からの助けも有り、前の所属部に戻れるとの話もあったが、やはり、夜遅くまでの勤務も多い元の場所には、Akoは少し、母へのひけ目も有って戻り難かったので、
ここで、出世コースに戻るチャンスを手放し、
本社勤務ではなく、比較的早く仕事が終わる、現地のマンションギャラリーの、営業担当とは違う、ノルマもない、第一次対応の、接客の仕事に就いた。
マンションギャラリーならば、
夕方18時には閉館になるので、お客様がいない時には、この接客の仕事は、自分次第で、早く帰れるからだ。だが、この選択が、Akoのそれまでの価値観、その後の人生を大きく変える。
Akoは、新人時代に我武者羅に働いていた自分を、
すっかり忘れている。今では、
家庭での空虚感を埋めるためだけに、
ひとり、ここで毎日過ごした。
「 B チーフって
Okunn だったの?」
「おい、敬語は?
俺はチーフだからサー」
「ナァ~、Ako?お前が一旦、
社から離れたから、
俺とお前が同期なんて、
誰も知らないんだ、ナァー。
可笑しいよ、ナァー、だから
俺たちが、ただ、
つき合っているとしか、
観られてない、ナァー」
「そうね、きっと、
大人の関係がある、男と女と、
思っているでしょうね~」
「ぜってぇ~、無理だよ、
ナァー、男と女になるなんてー」
「そうね、無いわね」
このマンションギャラリーの人事権がある、
チーフが決めたスタッフなのに、お互いがとぼけているのか、
Akoだけが鈍感なのかー、
このチーフは B Okunn 、
Akoの同期の Okunn だ。チーフとしては若い方だが、
それは営業成績が優秀なのだろう。
B が新人の頃は、
こんなに仕事ができる男になるとは、Akoは思ってもいなかった。だから、チーフだと分かった時には、たった5年程で、こんなに人は、成長するものかと自分と比べて愕然とした。
もう「上司」になった B と、
どう向き合えば良いのだろう。
B とAko は、
実は「同期だから」こそ、仲が良いとのこと、このことは二人とも、ここで一緒に働く者には、オープンにはしなかった。B は上司としてAko を扱いにくくなるし、Ako は、B の急成長について行けずに、頭の中では、幼さの残るOkunn がまだいてスッキリとはしないのに、同期とみられれば、上司として、B と接するのには接しにくい。
だから二人は、
皆の前では、昔のことは伏せたまま、仕事をスタートさせた方が、何事もスムーズにいくと思っていた。
それからは、Akoは、
朝の仕事に向かう足取りが変わった。嫌なものから逃げ出す、頭の後ろ側が、鈍く痛くなることが無くなった。これから向かう仕事場には、チーフがいる。
「今日は何を一緒にしようかなぁー」
Akoは、ウキウキしていた。
それはまるで、アルバイト先に、気になる男子がいる学生気分で、Akoは、仕事よりも「チーフに会いに往く」様になっていた。常に頭の中は、Bでイッパイになる。
Akoは、「Okunn 」じゃない、
仕事ができる男、「Bチーフ」に少しでも、カマッテほしい。いつも以上に、Akoは身だしなみにも気を配り、通勤に着る服は、どんどんフェミニンになっていく。
もはや、仕事に向かうために着る服ではない。
以前にも増して、周囲の目は気にしなくなり、ビジネスマナーもない、より華やかな、観る人によっては下品な、背中の大きく開いたワンピを着たりする。
Akoは、頼もしいB に、
自然と敬語で話しかけるようになっていた。
こんなにAkoが変化を遂げているのに、
B は相変わらずの仕事人間で、ただ業務に集中している。
マンションギャラリーのバックヤードにある事務室では、
座ったままでも逞しい、学生時代には水球に熱中し、鍛えられた身体はドッシリと、分厚い胸の上半身が、デスクに着いていてもかなり目立つ。
その広いB の背中に、
Akoがじゃれつき隠れると、それにB は満足そうに、一度だけニヤリと口角を上げ、その席を誰にも譲らない。周囲の者に、B は貫禄を見せつけた。その、大きな体でAkoを隠したまま、忙しそうにデスクワークを続けた。
こんな時、ちょうど良く温かい、
逆三角形の広い背中に隠れたAkoは、こんな、他愛の無い、些細な出来事でも「このまま、ずっと、こうしていたい」と、気持ちが大きく揺らいでいた。
だから、B との間にある温度差を、
Akoは気づかない。この時、B は、
会社での自分のポジションに合わせた、
芝居のつもり、だった。
✿❁❀✿.
優秀な B チーフが、
このマンションを売り切るまで、さほど時間は必要なかった。それは、社内では表彰されるぐらいの速さで、このマンションギャラリーが必要だったのは、たった2カ月ほどだった。
マンションが完売ならば、
マンションギャラリーは、すぐに取り壊される。B と Akoの関係は、このマンションギャラリーが畳まれると、どうなってしまうのだろう。
最後の朝礼の後、
B は今後の皆の行先の説明を始めた。その場には、チーフの上の立場にある、エリアマネージャーの顔も有った。
営業担当の行先を告げた後、
Akoたち接客担当の行先が告げられ始めた、他の3人の女性たちは、これから立ち上げの、かなり大きなタワーマンションに行くらしい。
だが、Akoだけは、
同じ路線で二つ先の、低層の億ションへ入ることになった。
けれど、B はそこの担当チーフではない。
これには、ここの皆が驚いたが、
それには、B と、朝礼に加わっていた、
B の上司のエリアマネージャーとの間に衝突があった。
何故、B とエリアマネージャーが衝突したのか、
誰も本当の事を知らない。けれど、「この二人が、衝突したから、B が飛ばされることになった」ことは、皆、分かっている。
そして、その、もめた原因を聴かされなくても、
いくら鈍いAkoでも、優秀なB が失速する理由が、他にないことも察しが付き、このB の「処分」には、自分が関係していることぐらいは、分かる。
それもきっと、自分の方がB よりも、ずっと、非が大きいことも。
エリアマネージャーは、
Akoも、これから忙しくなる、タワーマンションに入れようとしていた。けれど、B は、Akoを違う物件に入れた。その理由を、B はエリアマネージャーに説明しなかった。
結果的に、エリアマネージャーに逆らったことになるB は、
ここでも成果を出し、営業成績はトップクラスなのだから、次は、もっと大きな案件で、華々しく活躍できるはずだったが、
都心から、かなり離れた残物件、
それは、建物完成後も完売できていない、
棟内モデルルームに行かされることになった。
この、B の頑なな態度は、
実は、同期のAkoへの、気遣いからだった。
Akoは、ここで、
他の接客担当の女性たちのことを考えてはいなかった。
仕事では、職場での人間関係も大切にしなければならない。
とくに、この仕事の様に、
限られた者たちで一つに纏まり、ここで、仕事の成果を出さなければならない場合には、より、その事は大事になる。けれど、Akoは、B の方にしか向いていなかった。それを、他の接客の女性たちは良く思ってはいなかった。
タワーマンションの担当チーフは、B ではなかった。
B は、もう、Akoを守ってやれない。だからそこへ、一人になったAkoを、往かせることを、したくはなかった。
Akoは、ここでの2か月間の、
自分の浮かれたバカさ加減に、寒い季節に、冷水を浴びてしまった以上に、
全身が強ばった。
つかの間の幸せに過ごせていたAkoの足元は、
このマンションギャラリーと一緒に、ガタガタガタッーと崩れ、そしてさらに、また、一人ぼっちで、もっと、もっと、もっと、ずっと、大きな深い穴に落とされた気がした。
「でも、私、
Okunn が大好きだっただけなのに」
Ako は社会人として幼過ぎた。
Ako が、夫から、告知されたのも、この頃だった。
✿❁❀✿❁.
食器洗いに手袋をせず、
皺が縦にも横にも交じり合ったデコボコの皮膚に、縦筋だけは真っすぐに、太く盛り上って見える。硬くなった素手のまま、愛おしい娘、Akoの食べ終わった皿を洗いながら、年老いた母が尋ねた。
「ねぇ、Akoちゃん、
定期検査の結果どうだった?
もう結果、出たんでしょ?」
「うん、今回も大丈夫だったよ、
ありがとう。もう、
6年目だから、次からは、
1年おきで善いみたい」
「そうなの? 良かったわね!
一年おきなのね、Akoちゃん、
頑張ったわね、良かったわね!」
けれど、医師である夫からは、
「完治では無い!」と告げられている。5年経過の今の状態だと、10人中、2人は亡くなっている状態らしい。これを夫は、「二人!も、亡くなって、いるんだ、ゾ!」と、Akoに告げた。
「うん、お母さんも、
もう、心配しないでね」
「そうね、
私があまり心配していると、
子供たちも、また、
心配になるからね。Akoちゃんが、
もう平気って、分かったら、
子供たちも、安心するわね!」
「うん、
子供たちにも感謝している。
ずっと、我慢していたものね。
私、ちゃんと、
お母さんできていないこと、
子供たちに、
申し訳なく思っている。
学校行事、
子供たちの入学式や卒業式にだって、
往けなかったから、きっと、
それだって、子供たちに、
我慢を、させていたんだって、
分かっている」
「そうね、でも、
仕方がないじゃない。
お兄ちゃんだって、
卒業式に来なくて良い、
って、云っていたわよ?」
「うん、でも、お兄ちゃんだって、
きっと、
お母さんに甘えたい時だって
あるのに、いつも、
『 僕が守る!』、なんて、
強がっているでしょ。そうやって、
自分が甘えることが無いよう、
踏ん張って、頑張っているの、
私、
嬉しいけれど、やっぱり、辛いの」
「だけど、もし、お兄ちゃんが、
そうやって、この家の中で、
『 一家の長 』として、
家族のために頑張れる子じゃ
なかったら、私も、
いくらお母さんが、
子供たちのことを、チャント
していてくれても、子供たちを
そのままにして、外仕事に
出られなくなっていたと思うの。
でも、私、それじゃ嫌なの。
病気に負けたくないの。その、
弱さを、子供に、見せたくないの」
やっと、小学校高学年になったばかりの頃に、
母に起こった、ショッキングな出来事を境に、
帰宅しない日が多い、主人に代わり、
自分がこの家の、
「長」になると覚悟したお兄ちゃんは、この家の大事件を、ひとりで、まだ小さな胸に受け止め、それ以来、自分のことでは、母を煩わせない?様になっていた。
だから、思春期の反抗ではなく、
これも、母への優しさ、思いやりからの事だった。
仔犬の様に、チョコマカと所かまわず、
どこでも良く動き回る弟の行動にも、それを愛おしそうに見守り、保護者の様になっている。弟が母を恋しがる隙も与えない様に、いつも自分は寄り添っている。
弟は、それがいつものことなので、
別に兄に感謝せず、チャッカリと、兄の友人たち、そのメンバーに馴染み、自分も、その中で、一人前の顔をしている。
年上と、いつも一緒に行動していると、
自分と同じ年の子と遊ぶのは物足りないらしい。お兄ちゃんに守られているから、大きな顔をしていられるのに、チョット、おませさんだ。
そんなお兄ちゃんは、もう、
この家の、小さなお父さんになっている。
この兄弟には「兄弟喧嘩」が無い。
お兄ちゃんは、弟がエキサイトして、ファイティングポーズで向かってきても、相手にしない。頭一つ違う背の高さを活かし、サンドバッグのようになっている。少しお腹に力を入れて硬くしておけば、弟が疲れれば、そのうちに、終わる。
その様子を祖母は見守り、
母であるAkoに、時間が経ってから、そっと伝える。
子供たちがもう寝た、夜の11時。
ダイニングテーブルで母と向かい合い、母が作ってくれた、遅めの晩御飯を食べながら、まだ、ビジネススーツ姿のままのAkoは、子供たちの話を聞かされるといつも大きな溜息が出る。
Akoのせいで我慢をしていることが多い子供たち、
いつも世話をしてくれているAkoの母から聴く話は、Akoにとっては、辛いものが多い、Akoは胸が苦しくなる。
Akoは、子供たちに申し訳ない気持ちがいつもある。
夫の云い付けを守り、Akoが病気でなければ、子供たちの、この家での生活は、全く違うものになっていただろう。
Akoは、自分の病気に対する気持ちを、
話すのは初めてだった。
告知を受けてからもう、6年。これくらいの時間が経てば、そう、今なら話しても、心配性の母も、少しは落ち着いて聞いてくれると思った。
もう、6年、ずっと、Akoは強がっていた。
「病人に見られたくはない」Akoは、
罹患する前から就いていた、接客の仕事を、そのまま続けている。けれどこれは、幸にも、病気療養中の今のAkoにも、比較的、自分で仕事の目処をつけられるもので、来場者が居なければ、マイペースに動ける、現地のマンションギャラリーの、営業担当とは違う、接客の仕事に就いていた。
だが、その仕事先に、自分が、患っていることを、
告げてはいないし、行事の参加ができない理由として、病気療養中であるとのことを、子供たちの学校へも、話してはいない。これは、随分と、厄介なことだった。
仕事をしていれば、毎年、
会社が指定している病院で、健康診断を受けなければならない。そんな時、裸になれば、Akoの躰に残る手術跡の説明を、しなければならない。
Akoは、この健康診断では「既往症なし」と、
告げているので、この矛盾を、解決しなければならない。
問診の際には、毎回、
「良性の腫瘍があったので、心配をしたくなく切除しただけで、その後の治療はないことから、心配するものではありません。もう、10年は経っています」と、担当医師に訴えてみる。
そうした場合、大抵は、察しが良い、
賢い人である医師たちは、「では、何も視なかった、聴かなかったことにします」と対応してくれた。
けれど、中には、特記事項欄に、そのまま記入して、
「就業に問題なし」と付け加える医師もいる。そんな時に、傍にいる看護師さんは「聴いてしまったら、記さなければ、なりません」と、Akoの耳元で囁く。
こんな時、「だったら、どうしたら善いんですか!」と、
Akoは言い返したい。本当は、強く言い返したい。だって、私だって「頑張っているんですから! 踏ん張っているんですから! こんなことで、足を引っ張らないでください!」と、そう強く言い返したい。
病気を隠すことは、こんなにも、大変なこと。
病気と闘うだけではなく、なりたくもない、大ウソつきに、
ならなければ、いけない。
それでも、Akoは必死に病気を隠す。
✿❁❀✿❁❀.
Akoは、
もうずっと子供たちの学校行事には参加していない。
病気と闘うAkoは、治療中、免疫力が低下している。
この薬は、善い細胞にもダメージを与えるらしい。
Akoの躰を弱らせるし、抵抗力も弱らせている。
とくに、
「弱っているのに、他の病気まで発病したら、致命的になり、もう、助けられない。治せない!」と、医師である夫に強く云われていた。なので、Akoは、大勢の人が集まる場所には往けない。
これだって、Akoは、外で仕事をしているじゃないか、
とのことになるが、Akoの仕事は、マンションギャラリーでの接客の仕事。これは、確かに人と接する仕事なのだが、
マンション購入希望者、との、一定の、
限られた人しか来ない場所でもある。そのほとんどは、事前に予約をしてからお越しになるので、担当するお客様も、事前に決められている。
マンションギャラリーの内部には、
「キッズコーナー」が設けられ、保育士に、お子様を預けることもできる。そうすれば、大人だけで、ゆっくりとギャラリー内を観て廻れるようになる。
Akoの接客対象は、大人なのだ。
プライバシーに関わるこの仕事では、家族単位の、少人数で、コトは進むので、Akoが接客する対象は、「大勢の人」ではない。
それに、マンションギャラリーは、
広々としていて、ゆとりがある造りになっており、
対人距離も、確保されている。
そして、建設現場に建てられるマンションギャラリーは、
近隣住宅などから、少し離れた場所にあり、見方を変えれば、
隔離された場所でもある。
また、都心にマンションが建つ場合は、
大規模なマンションギャラリーを造るほどの土地はなく、この会社のブランドが分かる、会社近くのモデルルームに、お客様は案内される。そこは、Akoの仕事場にはならない。
だから、大規模なマンションギャラリーの多くは、
郊外に造られ、そこへ通勤するのには、
Akoは、都心に向かう人とは反対方向へ進むことになり、
人込みから離れることになる。通勤電車も混雑はしていない。
この、マンションギャラリーで働くスタッフは、
その規模と、販売状況にもよるが、大抵は少人数で有るので、例えば、来場者が居ない場合、接客担当のAkoは、誰も居ない、広いモデルルームに、ポツンと一人だけの時もある。
こうした状況は、隔離されたとのことが、
さらに強められたことと同じで、病人のAkoにとっては、有難い環境であった。
Akoは、「外に仕事に往く」ことに拘った。
Akoは、5年前、告知され、この病と闘うことになった。
その治療では、手術で躰の形がかわり、それに加え、薬の副作用があり、激しい吐き気、めまい、頭痛、発熱、貧血、下血等と、女性には厳しい、容姿の変化では、髪が全て抜け落ち、爪は手も足も、全て反り返り、真っ黒になるし、顔は、ムーンフェイスで腫れあがる。
これは、挙げ出したらキリがないほど、
多くの副作用と、ずっと、闘いながらも、さらに、同時に行われた、放射線治療では、熱性の痛み、火傷等とも闘った。
けれど、これらは、夫が医師であった為、
そのスケジュールは優遇され、手術後、わずか半年間で終わった。
この間は、Akoは家庭の都合で、休職をした。
そして以後、一年程は、ウィッグを着けて仕事をし、5年間は定期検査と、飲み薬だけになったが、
医者である夫から、処方された
「予防薬」の飲み薬では、5年以上も、副作用に悩まされている。
服用中の5年の間、
Akoの躰には、動悸、息切れ、めまい、浮腫などが現れ、エレベータを利用すると、そのGに耐えられないので、階段か、エスカレーターを利用している。立ち仕事が長ければ、他人よりも、躰は、かなり、浮腫んでくる。
そして、リンパ節切除した左腕は、
リンパ浮腫に悩まされ、右腕とは、太さが変わっってしまった。肘の近くでメジャーを当ててみると、その太さは、4センチほどの差があった。
これは、目に見ても、
ハッキリ判るほどで、たとえば、腕時計は、左腕に着けていたが、以前の物は着けられなくなってしまう程だし、着けられたとしても、Akoの左腕には、負担が大きいのか、着けるとさらに浮腫んでしまう。
それに加え、
左腕は紫外線に当たると真っ赤になる。だから、Akoは夏でも長袖でいる。
✿❁❀✿❁❀✿.
この様に、病と闘うAkoには、多くの障害がある。
これには、自分の躰に起きるものだけではなく、
「目の前の人」に対しての、ものもある。
「子供が居るのに、子供たちには近づけない」
Akoは、自分の母親に、子供を預けている。仕事が休みの日には忙しそうに、外での用事を創り、仕事がある日には、仕事のせいにして、同じ家に居るのに、子供たちと、すれ違いの生活をしている。
朝、子供たちが起きてくると、
もう、Akoは居ない。学校から帰ってきて、子供たちが学校での出来事を話す相手は祖母になる。夕食も、兄弟と祖母の三人で食べ、兄弟一緒に入浴を済ませる。
もうすぐ一日が終わる。
子供が起きていられる就寝時間までの間に、兄弟が微かな期待で母の帰りを待ってみても、大抵は、その期待は裏切られる。
Akoは、今日も、外で時間をつぶし、
可愛い子供たちが寝静まり、動かなくなってから、
そっと帰宅し、二人の寝顔にキスをした。
「ゴメンね...」
Akoは、何年も、謝り続けている。
お兄ちゃんを抱きしめていたのは、
弟がAkoのお腹に入る前までで、弟を抱きしめていたのは、手術をする前までだった。
この子たちは、母に、抱きしめてもらいたいと、
思うことはないのだろうか?
普段は強がるお兄ちゃん。お兄ちゃんに甘える弟。
母として、頑張っているつもりのAkoだが、
Akoには、子供の気持ちが分からない。
子供たちは、母が近づけないことを、
知っているのかは分からないが、自分たちの友達を、この家に連れてくることはない。
家の中も、限られた者しか居ない、
隔離された場所になっている。
Akoはいつも、夫婦の寝室に、一人で寝ている。
夫は、今日も当直なのだろうか。准教授なのに当番に、なるのだろうか。
Akoは、
「家族が居るから病と闘うことから逃げられない」と、しながらも、その家族に支えられて、「守られている」。けれど、そのパートナーの、夫とAkoとの関係は、病気になる前も、今も、複雑なままだ。
Akoは、定期検診を受けており、
その都度、全身の骨の中、各臓器、それは脳の中まで、と、隅々までを、検査している。
誰にも言えずにいるが、この検査の度に、
「自分は病と闘う者だ」と、実感させられる。
検査に訪れた病院の、
外来患者が居ない静かな検査病棟で、検査の順番を待つ間、一人ぼっち、廊下の長椅子に腰かけていると、Akoの頭の中には、仕事のことは全く出てこないが、二人の息子の事だけは出てくる。
検査結果が出るまでの間は、
一日一日が、何も手に着かず、せっかくAkoのために身体に良いものを選んで作ってくれた、母の愛情たっぷりの手料理だって、こんな時は、何を食べても味がしない。
眠りも浅く、少しの物音にも目が覚める。
昼間も夜も、全く、気が休まらない。
Akoは、リビングのお仏壇の前で、
先に天国に逝った夫の両親にお願いをする。
「母として、もう少しの間、
子供たちの傍にいさせて下さい」
夫は両親を早くに亡くし、Akoの実父もAkoが結婚する一月前に亡くなっていた。Akoの二人の息子には、両親の他、甘えられるのは、Akoの母だけだ。
Akoは、仏壇に向かってでしか、
夫の両親とは話せないが、毎回手を合わせる時には、必ず、子供たちのことを、お願いした。
やはり、
今回の病気は自分でどうにかできるものではない。これにはかなりナーバスになっていて、心の中で藻掻き苦しみ、それ故に、「残っているならば」と、必要以上に、自分の躰にメスを入れてもらう。
✿❁❀✿❁❀✿❁.
Akoはこの5年で、
7回も手術を繰り返した。
それも、夫ではない、
夫の勤務する病院の他の医師に頼みこみ、勝手に施術を受けた。
夫に相談しても、相談にもならない。
Akoの意見なんて、どうせ夫には、蚊が飛ぶ羽音の様にしか、聞こえないだろうから。
それに、
これらはあまりにも身勝手であったが、巻き込んだのは、夫が勤めていた病院の医者達であった為に、妻であるAkoの、その勝手な振る舞いに、誰も口を出さなかった。
手術などのスケジュール調整も、
担当医師の予定ではなく、Akoの仕事のマンションギャラリーから、マンションギャラリーへ異動する際にたまにある、待機の、大型連休に合わせることができた。
けれども、こんなAkoの我が儘は、
夫や病院に迷惑をかけるだけではなく、家庭の中でも大ごとなのは間違いない。
Akoの入院は、
その都度繰り返されるので、その度に、幼い二人の息子とは離れた。
お兄ちゃんが、急に大人になったのも、このことからだろう。
このお兄ちゃんは、
Akoの子供として生まれて、幸せを感じたことがあるのだろうか、Akoは、この子に十分な愛情を注いでいたかと問われると、全く自信がない。
お兄ちゃんが初めてAkoの子供になったのと同じ、
Akoもお兄ちゃんが産まれたことで、初めて母親になった。しなければいけない事は、何もかもが初めてのことで、チャントできていない。
Akoは、二人目の子が、
お腹の中にいるのが分かった時に、その子を守るため、お兄ちゃんを抱き上げることを止めてしまった。
お兄ちゃんは、この時から、
母親に甘えたことが無い。お兄ちゃんは、それで良かったのだろうか、
弟は、生まれてからAkoが病を告知されるまで、
ずっとAkoにベッタリだった。
この兄弟は、
母が病気になったことを、誰からも、ちゃんと知らされてはいない。ただ、母が、入退院を繰り返しているので、タダゴトではない、のは、分かっている。
Akoが、摘出手術を受けた時は、
術前1週間、術後1週間の入院だったが、その時には、化学療法はまだ始まってはいなかったので、子供たちは、祖母に連れられて、Akoの病室の中まで入り、病院で決められている面会時間が終了するまで、母と一緒に過ごしていた。
弟は、母に逢えたのが嬉しくて、
ベッドに上がったり、Akoの病院食に手を出して、一緒に食べたりと、はしゃぎ回っていたが、お兄ちゃんは、いつも難しい顔をして、Akoの、チョットの変化も見落とさない様に、口を噤んだまま、じっと、母を見ている。
もしも、母に何かあったら、
すぐに、父に知らせなければ、との事のように、大人びた態度で、母を見舞っている。
Akoは、
母を気遣う、そのお兄ちゃんを見て、涙がこぼれた。
お兄ちゃんが、母に甘えるのを、我慢をしている姿を、見るのが、辛かった。
Akoはこの時に、
さんざん振り回した医者である夫に対し、相変わらず頑なに、大切なパートナーとしてではなく、ただの、家の中の、一部の、一員だと考えている。
だから、手術で変わるAkoの躰が、
Akoだけの事ではないだろうに、夫婦の関係に与える影響には、何も気を配らなかった。
Akoは、ただ、
「母として生き続ける」ことだけに執着し、知識もないのに、素人ながらの勝手な解釈で病と闘い、自分の躰のことを決めてしまう。
これに、なぜかそのプライドを捨て、
夫はAkoに医者としての見解を示さずに黙認した。それは、最初は病と闘うAkoを、少しでも安心させるかのようだった。
けれども、実は、
プライドの高いこの夫は、自分からは何も口にはしないが、すでに、Akoの気持ちが自分に向かっていないことを、気づいていたのだろうか。
それに、Akoはなぜ、
こんなに無意味な自損行為を考えるのだろうか?
✿❁❀✿❁❀✿❁❀.
Akoは、Bと離れた後に、
病が発覚したことに、自分の「罪」をより重く感じていた。
家族を裏切った自分を、
窘める立場の舅や父がいないこと、けれども、天国からきっと見ていたと、そんなふうに、勝手に理解した。
だから、Akoは、その後ろめたさから、
この病が、自分に下った「罰」だと、かなり偏った解釈をした。
そして、懺悔の気持ちから、
この病を徹底的に克服するためには、女を捨てて、生きるためだけに、必要もないことまでも行い、戒めのように、自分の美しい躰を傷つけることを選んだのだ。
全く必要としない、非情な覚悟をする。
その為には、腫瘍を摘出した後の部位に、
夫が「みず」を入れ、外見でわかる凹みをせっかく整えたのに、それは違和感があって痛みが強いからと、別の医師に訴え、注射器でそのみずを抜いてもらう。
Akoは、それに躰を馴染ませるまでの時間、
病につき合うことを、少しでも早く終わりたい。
そして、転移を心配し、
チョットだけ出っ張ってきたホクロの切除も、わざわざ自分から皮膚科の医師にお願いして、後の見た目も考えてもらえる、形成外科の医師には頼まない。
あくまでも、その専門医から、
病理検査に出すためにと、そんなことを、自分で勝手に意味づけて拘ってみる。
だから、ホクロを取り除いた痕は、凹み、
今でもハッキリと分かる、目立つ深い皺になって残っている状態だ。
けれども、
これらのヒステリックな行為にも、夫はそれに口出しはせずに、最終所見だけ、カルテで確認していた。
これは医師としてではなく、
夫として、Akoの躰が、ドンドン、女としての、性的な魅力がなくなるのを、確認するかのようだった。
夫は、これで確信して、
しまうのだろうか。妻が、「罰を受けるようなことをしたと認めた」と。
Akoの躰にハッキリと刻まれた、
これら全身に点在する7か所の手術跡は、かなり広範囲にわたり、Akoの見た目を変えた。
これで思い通りなのか?
夫は以後、Akoが外で仕事をし、
帰りが遅くなっても、何も、干渉はしなくなった。
Akoの夫は医師で、
有名な私立大学病院の准教授の立場だった。Akoは、この医師である夫のお陰で、治療において、かなり優遇されている。
もしも、夫が、
この病院の准教授でなければ、告知からの2週間後に、手術をしてもらえなかったし、それ以降の治療だって、ドンドン進まない。半年で、治療が一段落になんて、ならないだろう。
Akoは、最上級の夫を持った、
とのことになる。けれど、この、夫の本心は、如何なのだろう。
Akoは、夫を利用した。
賢いはずの夫は、Akoに、何故、利用されたのだろう。
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿.
Akoは、病と闘ってから5年が過ぎた。
このところ、ある疑念にとりつかれている。それは、「夫を信用して良いのだろうか」、とのことで、
自分は「本当に、病気なのか」とのことだ。
なぜ、これほど恵まれた環境にいるAkoが、こんなことを考えるのだろうか?
これ程、夫に尽くされているのに、
この夫だから、Akoは予後も順調に、家族とこの家で生活ができているのに、今も、子供たちと一緒に暮らせているのは、全部、夫のおかげなのに。それなのに? これは、考えては、いけないことなのだろうか?
それに、Akoはいま迄、
他人を疑うなど、したこともなかったのに。
どうして? Akoは病気のせいで、
性格まで変わってしまったのだろうか。
Akoは、自問自答を繰り返している。
けれど、夫には直接は何も言えない。
夫に「私は本当に病気なの?」と、
尋ねるのが怖い。
聴いてしまうと、Akoは、
もっと酷い、辛い境遇になるような気がした。
夫との夫婦関係を、
ちゃんと築いてこなかったのはAkoにだって責任はある。この夫婦には全くの信頼関係なんてものはない。子供が居るから、家族で居るだけの、形だけの、関係でしかない。
Akoは、そんな夫だから、
Akoには、決して、真実を話してはくれないだろう、と、思っているし、Akoのことを、本気で心配してくれない、のも、しかたないとも思っている。
Akoが、反対の立場だって、きっと、
夫のことなんて、本気で心配はしないし、自分の仕事や生活を犠牲にして、夫のために、何かするなんてこと、しない。
それに、もしも、
Akoの余計な一言が原因で、
この夫のプライドを傷つけ、もっと、
夫との関係が悪くなってしまったら、
Akoが罹患者だと、ハッキリと、
夫がさせたとしても、自分が疑われたことで、気分を害してしまったら、また、それからのAkoの治療に、夫が、
何かを企てるのではないか、とのことも、心配なことだった。
仮に企てられても、
Akoにはそれが分からないかもしれない。
そして、今よりも、もっと、
「苦しめられるかもしれない」と、
不安になる。
だから、Akoは、
ハッキリとさせたいが、それが怖い。夫はAkoよりも、ずっと、賢いのだから、事を起こしても、Akoには、良い方向に進める自信が、全く無い。
Akoが、病気のこと以外でも、
苦しんでいるのも、確かなことだった。
どうしたら、Akoは、救われるのだろう。
Akoは、子供が二人いるのだから、
これ以上、軽はずみなことを、
もう、できない。
Akoは、
自分に身に覚えがあるのに、
夫に対する不信感が、
ドンドン強くなっている。
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁.
Akoは、
夫から告知を受けるその数カ月前、夫以外の男性、B に、恋愛感情を抱き、身も心も輝きだし、それは、随分とAkoを変えた。
Akoと夫が揃って家に居なくても、
Akoのクローゼットに、新しい派手な服が入っているのを、夫が見つけたとしたら、
その中に、あの、魅惑的な、
背中の大きく開いたワンピースがあって、これを、妻が仕事に向かうときに、着て往った、と、知ったら、夫はどう思うのだろうか?
服だけではない、きっと、
Akoは、化粧品だって、入浴剤や、フレグランスだって、以前とは違う、より、女性らしいモノに変えていただろう。
だから、この家の中の香りも、
きっと、変わっていたに違いない。
Akoが居なくても、
他の家族が入らない、夫婦の寝室には、残り香が漂っている。毎日は帰らない夫でも、それは、気づくのでは、ないだろうか?
だとしたら、
夫は、そんな妻を、どうするのだろうか?
Akoに対し、
病名を告知したのは夫だった。その切除手術をしたのも夫だった。手術後も、「完治はしていない」と、予防薬に、副作用の強い薬を処方したのも夫だった。
これら全て、主治医の夫、独りで、したことだった。
妻の仕事先に、男の影を感じた時に、夫が妻に対して
「制裁を」との事だったとしたら...
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀.
Akoは、
手術後5年間は、夫から、処方された薬を飲み続けた。
Akoには、躰にも、精神的、心理的にも、
過酷な、辛い日々が、まだまだ、ずっと、続いていく。
これは、Akoの体力を消耗させ、
行動能力をグンと下げた。以前は、できていた、何気ないことが、したくても、上手くできない。何をするのにも、手古摺る様になった。
エレベータは、
自分一人ならば使用を避けられるが、接客中のお客様と一緒ならば避けられない。Akoは、身体に掛かるGに耐えられなく、さらに、めまいで倒れないように、確りと、踏ん張った。
そんなに辛い表情を、
何も知らないお客様に、見せられないから、お客様には、背を向けるしかなかった。
エレベータの中では、
Akoは、閉まった扉の方を向いたまま、失礼にならない様にと意識して、より丁重に、穏やかな声で、「ご一緒させて戴きますが、お客様のお邪魔は致しませんように」と、
それが、接客の一部であるかの様に、
お客様には、お声がけをした。
接客が終わると、
マンションギャラリーの見晴らしの良いエントランスで、外に向かい、お客様の、お帰りの車が見えなくなるまで、お辞儀を続けるAkoだが、
建物内に居ても、
大きな開口部の近くでは、紫外線が、きつく、Akoにあたる。
弱ったままのAkoは、
健全な人では気づかない、その何倍も強く感じてしまう、痛みのある刺激に、耐えなければならない。
皮膚が赤くなる。熱が出る。
動悸が始まる、息苦しい。Akoは、低刺激の日焼け止めを一年中つけていた。でもそれは、あまり効果はなかった。Akoの顔の半分に日が当たれば、顔の半分だけ赤くなる。
Akoは再発を恐れ、
かなりストイックに、けれど、夫の同意を得られない場合を考え、夫には黙って、勝手に、他の医師に頼んで、
必要もないホクロを取り除いたり、
脂肪腫を切除したりして、徹底的に躰から、捕れるものは切除してしまったため、
Akoのこの30歳代との、
年代には残念なほど、グロテスクな姿になってしまったが、
もしも、夫が、
それに直接、確りとした対応していたら、
そうした悪性の心配のないホクロは、
そのままで、あったかもしれない、
なぜ、夫は、
その医師たちを、止めなかったのだろう。
Akoが、辛い毎日を長く続けたため、
夫への不満が、ドンドン、膨らんで、
変な勘繰りまで、するようになった、
の、かもしれないが、
これは、医者である夫が、
要らない手術や薬の投与を施し、妻の、Akoの、母としての生活に制限を加えることで支障を与え、職場での夫から解放された、Akoの行動の自由を取り上げたことになるのだろうか。
そうだとしたら、
最初の手術の時、
何も疑わなかった自分が、とても愚かだったと、Akoは後悔した。
摘出されたモノを、
見せてもらえば善かった。
ちゃんと確認すれば善かった。
そうしていたら、闘うのは、
「病」だったのに。
Akoは、
夫とも、闘わなければ、ならないのだろうか。
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿.
Akoの、確定診断は、
夫が、疑われた部位に、直接細い注射針を刺して、細胞を吸引し調べた、とのことで、
この時、
それは、Akoには、僅かな肉片のように、見えただけだった。Akoも、Akoの母も、腫瘍摘出手術後は、何も、確かめてはいない。
夫は、
何を、捕り除いたのだろう。本当に、躰に、それは有ったのだろうか?
この病は、
その種類が多く、残念なことに、現代では、罹患者も多くなっている。Akoは、告知された時、特に違和感はなかったが、
正月に、
親戚が集まったAko方の本家では、Akoが、患ったと聞いた時、そこに居る親戚の皆が、驚いた。
Akoの近い親族には、
罹患者はいない。早くに亡くなったAkoの父は、仕事の過労からくる、脳出血が、死因だった。
それに、
Akoは自ら脂肪腫を捕り除いているが、Akoの母にも脂肪腫は有るらしい。
母は、
膝の裏側の、外から見ても分かる、膨らんでいる瘤のようなモノを、Akoに見せてくれたことがある。
もっと勘繰ると、
夫は医者であるから、その妻が病気になれば、それを治せなければ、面子が立たない。夫は、その面子を保てた。そして、妻の病気が重篤な程、その功績は大きい。だから、夫は大騒ぎをするのだろうか。
Akoの夫は、
勤務先の病院での評価は良くなっていた。夫は、病気の妻を、その医師としての腕で、速やかに、的確に、支えた、優秀な医師といわれている。
夫は、Akoのことで、
勤務中に取り乱すことも有るが、プライドの高さを捨てた、その、なりふり構わぬ、人間味のある姿は、周囲の者からの、好感も得られた。
この病院では、まだ、ないケースだった。
夫は、医師としての技術も、人望も、認められ、教授へ、少し近くなる。
けれど、Akoの予後が良いのは、
最初から、病では、なかったから、ではないだろうか?
Akoが家族のために、
申し訳なく思っているこの苦しみは、
Akoのせいではなく、
夫が家族にしていることなのだろうか、
Akoは、病院で、夫の豹変ぶりを、
目の当たりにしたことがある。
Akoが、
週に一度の、通院を重ねていたころ、何度も病院を訪れるうちに、自然と親しくなった医師が居たが、
ある時、
少し、風邪気味だったため、用心深くなっているAkoは、風邪薬をもらおうと、夫ではなく、たまたま、姿を見つけたその医師に相談する。
その医師は、
「薬は飲み過ぎない方が善いよ」
と、Akoに応えた。
すると、それを聴いた、
近くに居た看護師さんが、夫に伝えたのか、
さすがに、
その場に割っては入らなかったが、
すぐさま、
診察室の電話にその医師を呼び出し、受話器から漏れるくらいの大声で、
「オイ!余計なことをするな!
お前が、いったい、
どんな責任を、とれるんダ!
妻は、大変なんだゾ!」
と、電話越しに怒鳴りつけていた。
夫は准教授、その医師は講師だった。
電話が終わると、
その医師は、急に、Akoに余所余所しくなり、「薬を出します」と、夫から指示された薬を処方箋に記した。
Akoには、
「薬は飲み過ぎない方が善い」との方が、正しく思えた。Akoの飲み薬は5種類に増えた。
Akoのことで、
他の医師には、勝手を許さないのなら、
なぜ、Akoは、夫ではなく、
他の医師たちによって、
ホクロや脂肪腫を捕り除くことは、
できたのだろう。
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁.
夫は、
Akoが尋ねなければ、自分から、Akoに病状の説明を、ワザワザしないが、Akoの、「行動を制限する」ことだけは、強く、執拗に、告げる。
子供たちのことだって、
なぜ、Akoを子供から離そうとするのだろうか?
これは、Akoにとっても、
母の身体を心配している、この子供たちにとっても、とても、残酷なことだった。
この、夫の言い付けを守ったばかりに、
Akoも子供たちも、とても辛い毎日を過ごしているのに、このことを、夫は、分からないのだろうか?
それとも、自分の子供たちを、
不貞をしたかもしれない、不潔なAkoに、これ以上、懐かせたくは、なかったのだろうか?
だから、学校行事にもAkoを往かせず、
日々、時間に追われ、
入院患者さん達の病棟回診、通院患者さん達の外来診察をこなし、担当医としての手術、術後の診察を担当し、書類作成などの事務作業もし、大学での研究、論文作成、海外や国内の学会での発表、講義や実技での学生のための授業、試験、その準備と審査、等等、
それ故、
家に居る時間はないのに、それでも、時間を創り、自ら子供のために、学校へ往っているのだろうか。
その姿はアッパレ!
非の打ち所がない。完璧な父親。
Akoとは正反対だ。
Akoは薬が必要な病人なのだろうか?
夫はAkoのことを愛しているのだろうか?
この夫を、
信用するのか、しないのかで、
Akoのこれからは、大きく変わる。
これら全てが、如何様にも思案され、
Akoの境遇は複雑すぎる。けれども、Akoは、
この夫と結婚したのは、失敗だと、思っている。
Akoは、家族のだれにも相談せずに、
6年目に薬を飲むのを止めた。
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀.
夫には内緒で、
Akoが勤める会社の保険証を使い、他の大きな病院で、セカンドオピニオン外来を受けた。
そこには、国立大学から派遣された女性医師が居て、
たまたま、Akoは、担当してもらえた。
Akoは、夫が医師だとは告げなかった。
そして、本来ならば、最初の診断の根拠となった検査資料や画像、担当医師がまとめた書類を提出するべきなのかもしれないが、
事情があって出せないと断った。
その女性医師は、
それでは、判断ができない。と最初に告げたが、現在の状態を調べて、暫く経過観察をしていくことはできるといってくれた。
Akoは、夫から処方された薬を止めてみた。
薬を飲むのを止めてから、1年が過ぎた。
Akoを苦しめていた、めまいや、動悸や、息切れや、急に体が熱くなることもなくなった。
リンパ浮腫も、治まってきた。
血液検査では、白血球は正常な、標準的な数値になっているのが分かった。貧血も出ていない。
この病院でも、
定期的に全身を調べてもらっているが、
再発や転移は、今のところは、みられない。
この医師からは、
「カラダの中は、
キレイに、なっている」
と告げられた。
✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿❁❀✿.
「オシ!俺、先に言っとくけど。
お前ら、俺に気を遣うなよ、
気持ち悪いからな!ナンか、
俺から言うのもサー、だけど、
急に、K から、皆で集まる
なんて聞かされたからサー、
やっぱ、皆が気になるのは、
俺とAko の事かって、
思うんだけど、正直、
何年前ダァ?だろ、俺、
ゼンゼン平気だからサー、
止めてくれよ、頼むから」
Akoは、
再び勤めだしてから、何年過ぎたのだろう、
先日、大昔のAkoの送別会以来になる、
同期との集まりで、
ずっと、離れたままでいた、B とも再会し、
嬉しい「告知」を聴いた。
「でもサー、俺、落ちたと
思ってないんだぜ、たぶん、
来期、
エリアマネージャーになるんだ、
俺。内示有ったし」
「だ・か・ら・サー、止めろヨ、
お前、忘れ、てんの?あの時、
一緒に芝居していた、ダケだろ?
まさかお前? 俺の事、
本気で好きだったのかヨ?
止めろヨ 気持ち悪い!」
「嘘! 違うわよ!」
「ナラ、オ・ワ・リ!」
B は変わりなく優しかった。
B の思いやりから、何年も、Akoに付き纏っていた、後悔、蟠りは、すっかり解かれた。
Akoはこの時に、
薬を止めていたので、一か八か、勢いをつけて、一杯目の飲み物を、モスコミュールにしている。
驚いたことに、
躰に変調は起こらず、酒も、呑める様になっていた。このカクテルは、Akoにとっては、とても美味しいものになった。
けれど、そのせいじゃない。
B のおかげで、Akoは、カクテルの甘さを、ゆっくりと味わえた。
同期のR は、
お道化て、その場を和ませている。S は Akoに、「仕事を辞めないで善かったね」と、云ってくれた。K は、こんな同期たちを一つに纏めた。AkoにB と会わせようとしたのはK だった。
Akoは、
この同期たちに「守られている」と、感じることができた。
Akoは、自分が強くなった気がした。
帰宅すると、夫には内緒にしたまま、
夫から処方された薬は、全て処分した。
Akoの躰は、
そのうちに、病気に対する抵抗力も強くなってくるはず。
そうしたら、子供たちを精一杯、抱きしめてあげられる。
「もうすぐだよ」
Akoは、
寝静まった子供たちの頬に、優しいキスをした。
きっと、Akoが、子供たちを抱きしめられることを、
一番、楽しみにしている。
Akoは、また、あらためて、夫のことを、
「家の中の、一部の、一員」と勝手に位置付け、
相手にしない、ことにした。
もう、夫の病院には往かない。
そのつもりだった …
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