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休日の昼間、滝本はカーテンを開いて外の空気を部屋に送り込んだ。向かいの公園の桜はもう満開になっていた。近々、智子とお花見に行く予定だった。風に乗り、桃色の花弁がひらひらと、揺蕩うように何処かに流れて行った。
タツオミと別れて一週間が経っていた。探し求めていた女性を見つけたタツオミがこの後、どのような選択をするのかは分からない。このまま母親と共にいるのか、それとも成仏をするのか。それは、タツオミ自身が決める事だった。
当の滝本は、特段大きな寂しさは感じていなかった。夜はよく眠れるし、部屋を生首が転がる煩わしさはないし、首の断面を見せられる不快感もない。けれど、ほんの少しだけ、胸に引っかかった。それは禁煙時の、口寂しさのようなものと似ていた。
玄関でインターフォンが鳴った。迎えに出ると春色のコートを羽織った智子が玄関先で待っていた。彼女の左手には婚約指輪が光っていた。
「進くん、準備するの遅いよ。映画の時間過ぎちゃうよ」と、智子は言った。
「二時じゃなかったっけ?」
「違うよ、一時だよ。早く行かないと間に合わないよ」と、智子は言った。「戸締りして、早くね。私、もう車の所に行ってるから」
智子はそう言って、ぷりぷり怒って行ってしまった。彼女の姿が消えたその後ろ、滝本は脱力し、開いた口が塞がらなかった。
「戻ってきちゃった」と、あの無邪気な笑みを見せながらタツオミは手を振った。「もうちょっと此処に居ていい?」
滝本は唖然とした。「だって、母親は?三十五年ぶりに会えたんだろう?」
「もう、気持ちは分かったから」と、タツオミは言った。「お母さんがどうして俺を殺したのかって。分かって安心したんだ。俺、嫌われてなかった」
「世の中には仕方ない事もあるからね」
「そうみたいだね」と、タツオミは言って笑った。
「どうして戻ってきた?」
「だって俺、知りたい事が一杯あるから」と、タツオミは言った。「見てない物が一杯あるんだ。桜とか、富士山とか、キリンとか、海とか。テレビでなら見た事あるんだけど」
タツオミは生まれる事さえ出来ずに死んだのだ。タツオミは知らない。桜の美しさ、夏の花火を、焼き芋屋の芳しい煙を、霜柱を踏む足の感触を。タツオミは何も知らない。
滝本は息を吐いた。「分かった、分かったよ。連れて行けばいいんだろ?」
「何処に行くの?」
「海だよ」と、滝本は言った。
もう映画のチケットも取ってあるし、海まで二時間はかかるし、どこかでスタンドに寄らなくてはならないけど、智子も分かってくれるだろう。何たって、お兄ちゃんの頼みなのだ。
「体を取り戻してどんな感じ?」と、滝本は聞いた。
「鼻を掻けるのっていいね」と、タツオミは笑った。
公園から、子供達のはしゃぐ声が聞こえた。暖かな道路の上で猫が欠伸をし、豆腐屋が屋台を引いて長閑なラッパを鳴らした。春の陽気は暖かく、短い。桜が散るのも、もうすぐ。
完
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