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「夏美さんは?」
「聞く耳もたなかった。夏美は奴と付き合うようになって変わっていった。家族や友人とも会わなくなり、電話すらかけて来なくなった。音信不通の日が何日も続いた。それで、家族が同棲している部屋に押しかけるはめになった」
「彼女は?」
「一か月ぶりに見る夏美は変貌していた。体は痩せ、頬はやつれ、顔中を痣だらけにされていた。夏美は俺達の顔を見なかった。どうしてだか分かるか?夏美の歯は、その時殆どへし折られてたんだ」
浅井氏の口調は、今なお憎悪に満ちていた。
「そこまでされても愛していた男を、どうして夏美さんは殺害したのでしょう?」
「子供だよ」と、浅井氏は言った。「夏美と坂下と間に子供が出来た。夏美はとても喜んでいた。これで、坂下が変わってくれると、そう信じたのかもしれない。けれど、酒を飲んで暴れる坂下の暴力は止まなかった。むしろ、その狂暴性は増していった」
「夏美さんは?」
「子供を流産した。坂下の酷い暴力を受けてね。夏美は酷く落ち込んだ。子供を守れなかった絶望、信じた男に裏切れた絶望、それが夏美を責め続けた。彼女は許せなかったんだろうな。自分の事はいいけど、子供には何の罪もなかったから」
庭のタツオミは、飛んでいる蝶々を追いかけて緑の芝生を転がっていた。話に聞く辰臣、目の前で蝶々と戯れるタツオミはどうしても結びつかなかった。
「その日、夏美は駅前のデパートで包丁を買った。そして、家で泥酔して寝ていた坂下の腹を滅多刺しにした。彼女は坂下の体をバラバラに切り刻み、それを公園のゴミ箱に捨てた。胎児の弔いが済んだ後に、彼女は警察に出頭した」
「夏美さんは刑務所に入った。けれど、出所をしているんですよね」
「夏美は出所した一年後にガス自殺を図って死んだよ。きっと、亡くした子供の元に行きたかったんだな」
「そうですか」と、滝本はそう言った。「その……坂下の写真なんてないですよね?」
「もう三十年も前の事だからな。持っている人なんて居ないんじゃないか。関係者も相当な高齢になっているか、死んでいるかしているだろうし」
「そうですよね」滝本は言い、お茶を飲み干した。「話を聞かせて頂いて、ありがとうございました」
「ああ、いいよ」と、浅井氏は言って何度か頷いた。「もし記事を書くのなら夏美は優しい子だったって書いてくれ。恋人を殺した毒婦としてではなく、家族や友人を愛した一人の女性として。その事を忘れないでくれ」
「分かりました」滝本はそう言って立ち上がった。「お茶、ご馳走様でした」
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