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ホテル最上階の日本料理店の座敷から耳障りなダミ声が響いた。
「なんだよ、柚木さん。この前の娘は来ないの? あの娘に会えると思って来たのに。君の秘書だろう?」
住仲銀行の村野部長はあからさまに嫌な顔をしていた。「残念だなぁ」と汚く笑い、唾が飛んだ。食い散らかされた鮎を仲居が丁寧に下げていく。
「いえいえ、私なんぞに秘書なんておりませんよ。あの社員はできる社員でしてね。営業のサブも任せておりまして、本日はそちらの業務で……」
「まあ、それならそれで仕方ないけれども。いかんせん華がないのもね。とりあえず二件目でお姉ちゃんがいる店でも行きましょうよ、ねえ?」
村野は専務に目線を送り、酒が回った専務は言われるままに頷いた。
夜の繁華街の中心に、村野行きつけのクラブがある。慣れた様子で村野は店へと入っていく。
「さあさあ、専務、柚木くん」
にやけた顔に嫌気がさすが、柚木は苦笑いで入口を抜けた。
柚木たちに三人のホステスがついた。一人は着物を着ていて村野の隣に掛け、他二人が専務と柚木についた。皆、甘い匂いをかぐわせている。
「おいおい、この前もっと若い娘いただろう? 今日は天下の三鐘商事の専務と副部長連れてきたってのに。え?」
村野がふんぞり返って自分の隣に座ったママに言うと、柚木の隣に座ったホステスが僅かに酒を作る手を止めた。
「嫌ですよ、村野部長。若い娘では村野部長や三鐘商事様の話題についていけないでしょう? ちゃんと見識もあり美貌も兼ね備えないと。いつも村野部長が仰ることでしょうに」
「いやいや、ママ。せっかく初めて連れてきたんだから、最初は若い娘なの。途中からでいいよ。年増は。がはは」
村野がそう告げると、ママはやはり上手で、「もう、村野部長たら。連れてきますけど、教養がないなんて叱るもんじゃありませんよ?」と、静かに席を立つ。
柚木は少し手を止めたホステスの横顔を見た。ホステスが柚木へ顔を向ける。
「……どこかで、お会いしたことがありますか? 私がこのお店に来たことを忘れてるのかな」
柚木はそのホステスに訊ねた。ホステスは口許を手で覆いながら、
「いえ、初めてでいらっしゃいます」
と、応えた。だが、ほんの少し目線は柚木から逸れた。
ママがしずしずと戻り、そのホステスは柚木の隣を立った。
「ごゆっくりどうぞ」
そう告げて、ホステスが去り、若いホステスが間髪入れずに柚木の隣に座る。
柚木は去っていくホステスの背中を見つめていた。
背筋を伸ばしたままのその背中は、必死で自分自身に虚勢を張っているように見えた。
「乾杯だ、乾杯!」
村野のダミ声が響き、ホステスの背中は暗がりに消えていった。目を細めたが、暗がりの奥までは見えなかった。
了
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