10.たゆたう兆し

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 珍鳥が空を羽ばたいている。アーシェでは見たことがない。住民に話を聞けば、決まった時期にしか姿を見せない鳥だと言う。  姿が見えない間、一体彼らはどこにいるのだろう。  北のニュクスか? 南のレイヌか? 東のヘスペリデか? それとも……  ぱしりと、肩を紙で(はた)かれた。 「何ぼーっとしてんだよ」と、イサークが鬱陶しげな目付きでこちらを見ており、ファティマは苦笑する。  馬を走らせ北の古城から近くの農地を訪れていた。洪水により肥沃な土壌を培うこの地には以前はなかった灌漑(かんがい)が出来、かなり大きな農地となっている。この農地の管理はイサークが任されていた。  少し前までイサークはレフを慕い、彼の後をついてまわっていたが、ファティマがヘスペリデへ連れて行かれた一件以来、レフとは距離を取っているようだ。あのとき両者の間でどのようなやり取りをしたのかは定かではないけれど、ファティマにとっては決して他人事ではないので、どうしても気になってしまう。  どうかレフを悪いように思わないで欲しいと、理由がどうあれレフが成したことは変わらないと、口出し出来る立場にないと理解しながらも、つい唇から零れてゆきそうになる。  その感情をぐっと堪えるあまり黙りこくってしまい、痺れを切らしたイサークに次は腕を叩かれた。ファティマは慌てて紙を受け取る。今日はこの資料を受け取るために、ここに来たのである。   「それ、現場の意見まとめた報告書」 「ありがとうイサーク、仕事が早くて助かるわ」  お礼の言葉にも、つんとイサークはそっぽを向いた。自分に対するイサークの態度には慣れっこなので、再び苦笑する。 「早速これを元に技術者と相談するわね。前に貰った地質調査の結果は、もう既に精査して、魔法士に依頼をかけておいたから」 「……魔法士って、元宮廷魔法使いだろ」 「そんな嫌そうにしないで。魔法を使える人はあまりいないもの。国の為に働いて貰えるのだから、別に良いでしょう?」  別に嫌そうになんかしてないとイサークは吐き捨て、仕事へ戻っていく。  人が強力な魔法が使えたのは神の恩恵が一際強かった神話時代の話……だが、今でもささやかながら魔法を使える人間は存在する。  どの国の魔法使いも貴重な力を周りに分け与え、人々はそれを分かち合って暮らしているのだ。  しかしかつてエレボスではその大半が皇帝に召し抱えられ独占されていた。皇帝亡き今、ようやくその力が一般市民へも平等に行き渡るようになっていた。  あれから──アーシェが侵略された夜から一年(ひととせ)が過ぎた。  ファティマはエレボスに留まり、国の復興へ身を投じている。レフの傍にいたいと願っていたファティマにとっては必然的だったが、日々はとても満ち足りていた。  やるべきことは沢山あるし、学ぶべきことは尽きない。復興の傍ら、星や海についても調べている。国が落ち着いたら、次は何をしよう? そんなことを自分が考える日がくるとは。……そして、自分が馬を乗りこなす日が来ようとは。  ファティマは堪らずくすくすと笑いを漏らし、馬に跨った。たてがみを優しく撫で、手綱を握り腹を蹴る。たちまち、風を切った。 「あら、おかえりー、ファティマ」 「ご苦労さまー」 「ただいま」  (うまや)へ馬を戻していると、洗濯かごを抱えた女性二人がファティマに気付き、声をかけてきた。  古城での生活にも大分慣れ顔見知りも増えて、こうして声をかけられることも多くなった。古城の人間はファティマの境遇を知っているが、皆身分に翻弄された生を送ってきた者が多いからか、ファティマの気持ちを汲んで普通の友人のように声をかけてくれる。それをファティマはとても有難く感じていた。 「あんまり根詰めないで、今日はゆっくりしたら?」 「なんてったって明日はレフ達が帰ってくるじゃない。お洒落して、出迎えの準備しないと! そうでしょ?」  レフは治水工事の調査のためラーリャ達とエレボスの南の地域へ向かい、一ヶ月ほど古城を留守にしている。レフは行きたくないと言い張っていたが、レフが行けば住民も活気づくだろうからと周りの者が説得し、最後には見かねたファティマも口添えして渋々了承したのだった。  それまでずっと離れずにいたからか、もう随分と会っていないような感覚になる。幾度か夜に寂しい気持ちになって、幼子みたいに涙ぐんだこともあった。  ──恥ずかしい! 年端もいかぬ子どもでもないのに。  軽率に思い出すと羞恥にかられる。自分はすっかりレフに依存してしまった。  そんなファティマの羞恥心も知らずに二人はあっという間にファティマを挟み込んで、はあ、と熱のこもったわざとらしい溜め息をこぼしていた。ファティマはその意図を汲み取れず目を(しばたた)く。 「羨ましいわ~レフと恋仲だなんて」 「彼は褥で一体どんな言葉を囁くの? 教えてよ~」 「や、やめて、からかうのは」 「おすそ分けしてくれたって良いでしょ?」 「知りた~い」  二人に挟まれ逃げ場もなく、ファティマは頬を赤くした。言葉に誘われそのまま彼の夜の言葉を思い浮かべそうになり、慌てて振り払う。  エレボスはどちらかと言えば性に奔放な(たち)の者が多いからか、ファティマのような反応は新鮮で可愛らしく見え、度々こんな風に絡まれてはファティマは困り顔を見せ女子達を喜ばせていた。  にこにこと微笑ましげにファティマを見つめていた二人のうちの一人が、ふと思い出したように「そういえば」とぽつり呟く。 「レフといえば、今日町で買い物していたら不思議な話を聞いたのよね」 「不思議な話?」 「果物屋の店主がね、一昨日、町でレフを見たって言うのよ」  ファティマとあとの一人が目を丸くして顔を見合わす。  有り得ない話である。レフは一ヶ月ほど南の地域へ出ており、明日帰ってくる予定、だ。三人は総じて首を傾げた。 「他人の空似でしょ~って言ったんだけど、間違いないって言い張るもんだから、不思議でさあ」 「まあ、確かにレフは目を引く容姿をしてるから、見間違うのも難しい気がするけど……彼は今いないし、ありえないでしょ」 「そうよねえ、何だったのかしら」 「世の中には三人ほど自分と似ている容姿の人がいるっていう話もあるみたいだけど……」 「そうなの? じゃあアタシにもレフみたいな美丈夫の恋人が出来る可能性がまだあるってことね」 「相手にして貰えればねえ」 「聞こえてるわよ」  二人の掛け合いに、ファティマはふふっと笑った。とにかく今日はもうゆっくりしなよ、という二人と手を振り別れる。  不思議な話を反芻しつつ、ファティマは「レフが帰ってくる」という事実を改めて噛み締めて、足取り軽く自室へ続く廊下を歩いた。
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