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18.弔鐘
まだ朝日が昇り切っていない早朝。僅かに仄暗さを纏いつつも、かそけき光に淡く浮かび上がる町を窓から見つめる。
ゆっくりとした動作で寝着から普段着へ着替え、少し重たくなってきたお腹を庇いながら部屋を横切る。そして扉を開け家を出ようというとき、家の中から彼女を呼び止める声があった。
「一人で行くつもりか」
その声に、肩を竦めた。
こっそり行こうとしても絶対に起きてくるんだから、と内心ごちて密かに溜め息を吐く。ノエは背後を振り返りながら目一杯笑顔を作るけれど、どこからどう見ても苦笑いになってしまっている。
「イサーク……一人で大丈夫だから気にしないで」
「あそこは階段が長い。転んだりしたらどうするんだよ。鐘役は暫く俺に譲れ」
「心配性なんだから……」
困ったようにノエは笑う。表情には若干の呆れが浮かびつつも、瞳の奥には幸せが滲んでいた。
亡国アーシェ共和国で起こったあの出来事から──おおよそ十年の歳月が流れた。
あれから変転を繰り返しノエ達を取り巻く環境、国々は大きく変わった。
かの大国、ヘスペリデ。対話時の横暴な振る舞いは島中に露見し、王家の名声は瞬く間に地に落ちた。加えて海神ルカの所業も知るところとなり、ヘスペリデ国内は王党派と反王党派に分裂。王都のある北に王党派、南に反王党派と分かたれ内戦が続いた。
王党派はもちろんセイレンを指導者に立てることを望んでいたが……彼はあの一件以来、以前の明敏さは鳴りを潜め、まるでもぬけの殻のようで、王党派は難渋しているという。現在内乱は鎮まっているが、南では独立運動が活性化しており未だ問題を抱えている。
レイヌは対話時に国の者を殺されたことに強く遺憾を示し、現在も両国の国交は断絶したままだ。
対してエレボスは、この十年で目覚ましい発展を遂げた。魔法使いと共に行った徹底的な農業基盤の整備に伴う食料自給率の向上。教育機会の増加による職業の多様化など。旧帝都以外の町々も各管理者のもと賑わいを見せ、今やヘスペリデを上回る大国である。
姿を消してしまった英雄に代わり、ラーリャが指導者となっているが「早く誰かに引き継いで引退したい」としきりに溢しているらしい。度々愚痴を聞かされるイサークはうんざりしているようだ。
そして、アーシェ共和国は──アーシェの手により制裁を受け壊滅的状態となったのち、エレボスの力を借り新たな形で復興した。共和国は事実上消滅、しかし「ファトマ」という町としてエレボスの一部になっている。
町には元共和国民だけでなくエレボス民も移り住み、神殿が建立されていた場所には後に鐘塔が建てられた。
アーシェの御魂を弔うため。
人が犯したあやまちを忘れないため。
朝と夕に鳴り響く鐘音に耳を澄ましながら人々は女神を想い、あやまちを繰り返さぬよう己を戒めるのだ。
まだ人影のない町を歩き、鐘塔に辿り着く。天へと真っ直ぐに伸びる石造りの丸み帯びた塔は、今日も泰然とこの町を見守っている。
イサークはそっぽを向きながらも、ノエに手を差し出した。塔の螺旋階段は長い。相変わらずの不器用さにノエはくすりとして、そっと手をのせた。
時間をかけて登りきり、最上階へ出る。天井にはアーシェの紋様が彫られた壮麗な鐘が吊るされていて、壁は四方をアーチ型に繰り抜かれており島を遥か遠くまで見渡せる。南を向けばファトマの町が、よく晴れた日は更にその向こうのレイヌまで。北を振り向けばニュクスの雪を戴く山脈が見える。
今日のような冷えて空気の澄んだ早朝は、鐘音はとても広い範囲に響き渡るだろう。こんな日は、ノエは一際強く想いを込めて鐘を鳴らす。ノエが鐘を鳴らすのは、女神や戒めのためだけではない。大切な人へ届くようにと、鐘綱を引くのだ。
帝国時代よりエレボス各地にあった円形闘技場。今やその殆どが演劇場となっており、大勢の観客で賑わっている。そして演劇場となった当初から、長く愛され続けてきた演目がある。
叙事詩として島で広く知られるようになった『ファティマの歌』
島中を旅したファティマは、やがて恋人である英雄レフと共に海神ルカの子孫であるヘスペリデ王を倒し、人間の犯した罪に怒れる女神アーシェをその命を持ってして鎮め、島を救った。その死を憐れんだ生を司る神ナンナルが彼女に永遠の命を与え、ファティマは女神となった──。
もちろん、ただの創作だ。事実と異なる終わりは、幸せに満ちた幕引きを望む読み手や観客への配慮である。
──ファティマ様は、確かに培った高潔さを持っていらした、本当に聡明でお優しいかた。いつまでも、私の憧れ。でも自分が大人になった今思えば……あのかたは特別であるよりも一人の人間であることを望んでいた気がする。
朧げになってしまった彼女の声を手繰り寄せ、なんとか思い浮かべる。抱き締めてくれた肌の温かさと心地良さ。十年が過ぎた今でも不意に恋しくなる。この塔にのぼり、鐘を鳴らすたび、このはるけき景色のどこかに彼女がいるのではないかと何度思っただろう。
ノエは、未だ半信半疑でいた。ファティマが亡くなったと聞かされたときから、今までずっと。
ファティマの遺体は帰ってこず、見ていない。
スィンは無事だったらしいが、彼も帰ってくることはなかった。
幼いノエから見ていても、二人は比翼の連理。スィンがファティマから、ファティマがスィンから、離れるはずがない。悲しい結末であるなら、きっと共にする。けれどスィンは生きているというのだから、それならば……本当はこの島の何処かで二人、人知れず幸せに暮らしているのではないか、と──
所詮は希望的観測にすぎない。けれど、そう思うことで掬い上げられる気持ちがあった。
──ファティマ様、あれから、色んなことがありました。お話ししたいことがたくさんあります。
信じられますか? あのイサークと夫婦になりました。あと数ヶ月で家族が増えるのです。ファティマ様に、我が子を抱いて貰えたなら、どんなに嬉しいか……
ファティマが天と地のどちらにいたとしても届くように、ノエは今日も鐘綱を握る。
何度でも、何度でも、塔へ登る。
きっと生涯、登り続けるだろう。
口に出来ぬ言の葉をのせ、この鐘を鳴らすために。
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