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⒋海辺にて
視察にて多くの町をまわってきたが、とうとう最後の町ユーラにやってきた。
エレボスは海沿いのほとんどが険しい岩山と切り立った断崖に囲まれているため、浜辺がある海近くの町はこのユーラのみである。
その浜を囲うように聳える断崖の斜面に白い石造りの家々が建つ美しい景色、そして鼻腔を掠める潮風に、ファティマは胸をときめかせた。
──これが、潮の香りなのね。
歩く間も、町から見渡せる空との境を見失った青海に、しきりに目を奪われてしまう。
視察を終え、後は宿へ戻るだけというときに、なんとレフが「海辺へ行ってみるか」とファティマに声をかけてきた。ちらちらと海に気を取られていたのを気付かれていたのかと、ファティマは恥ずかしさに頬を染める。
しかしもっと近くで海を見てみたいという好奇心は抑えきれず「行ってみても良いですか?」とファティマは遠慮がちに答えた。
他の者達と別れて、二人だけで海辺へと歩き出す。歩きづらい岩場は、レフがファティマの手を引いて支えてくれた。ファティマはもうレフの手を取ることに何の躊躇いもなかった。
やがて岩場を抜け、浜辺へ出る。砂浜が、ファティマの足に絡みついた。
白銀の浜辺へ寄せては返す海水の不思議な音、波の綾、透き通る浅瀬の美しさ、目が眩むほど果てしなく広がる一面の深い青。
「……海」
感嘆の混じる声音で、ファティマはごちる。
砂が入りこんでくる煩わしい靴を脱ぎ捨てて、小走りに浅瀬へ近づいていく。
「……なんて、なんて綺麗なの。あまりの果てしなさに目が回りそう」
おそるおそるつま先を海水へあてようとするも、思っていたよりも寄せてくる海水の勢いが速く、あっという間にくるぶしあたりまで海水に浸かってしまった。そしてまたすぐに去っていく海水のあとには、淡い色合いの宝石のようなものがきらきらと光っており、ファティマは何かしら、としゃがみ込む。
拾い上げてみれば、それは光沢を湛えた貝殻だ。海と砂浜に愛し育まれ、どれもとても美しい。
──アーシェで採れる鉱石と同じくらい、とても綺麗……。
そんな風に考えていたとき、冷たい飛沫がファティマを襲った。
ファティマは驚きのあまり貝を持ったまま硬直する。また海水が寄せてきて、しゃがみ込んでいたファティマを悪戯に濡らしていったのだ。
ファティマは慌てて立ち上がったが、もちろんもう意味はなく、腰から下はびっしょりと海水に濡れてしまっていた。
浮かれきった気分も冷や水を浴び冷静になる……かに思われたが、浅瀬を蠢く影にファティマは再び目を奪われる。
太陽光をきらきらと鱗で返す小魚が、連なって泳いでいた。愛らしさにもっと近くで見れぬものかとゆっくりと近づいていくも、迫り来る何かを察知した小魚達はすぐさま離れていく。
追いかけることに夢中になるうち、いつの間にか膝あたりまで海水につかっており、ハッと気付いたときには一際強い波が押し寄せて、足をすくわれてしまった。
「わっ……」
青い空が、眼前に広がる。
転倒して、全身が海水に攫われる。柔らかな砂に受け止められ痛みはなかったものの、海水に濡れた目は染みるし口は塩辛い。堪らず上半身だけ急いで起き上がらせた。
背後からこちらへ走ってくる足音が聞こえる。きっとレフだ。
ファティマはとても恥ずかしい気持ちになった。レフはファティマが海と戯れているのを遠目に見ており、ここまでの様々な醜態に見かねて走ってきたのだろう。
「おい! 大丈夫か」
「は、はい、だいじょう…」
言い切る前にレフがファティマの傍らにしゃがみ込み、ファティマの顔に鬱陶しく張り付いた髪をそっと拭った。その手に、ファティマは身体がまるで心臓そのものになってしまったかの如く、どきりと震える。
「危なっかしくて見ていられない」
少し、掠れた声だった。
レフもかなり海水に濡れてしまっていた。けれど脇目も振らず自分の元へ来てくれたのかと思うと、ファティマは胸が痛く締め付けられる。
波の音も、不思議と遠く聴こえる。きっと自分の心臓の音が大きすぎるからだとファティマは思った。
ファティマが躊躇いがちにレフへ視線を向ければ、当然視線は交わる。瞳を交わらせていると身体が段々と熱くなっていく気がしたけれど、どうしても逸らすことが出来ない。
暫し見つあっていると、レフがまるで眩しいものでも見るように目を眇めた。
そしてファティマの肩をゆっくりと、だけれど確かに引き寄せ、膝裏に手を入れるとあっという間に抱き上げた。
ファティマは驚いて、思わずレフの首元へしがみつく。
「え、待って、自分で歩けますから、おろし……」
「いいから、大人しくしろ」
嫌ではない、いつもの如く。嫌悪感がない。
ただ、密着する身体にどうしようもない気持ちになって、この気持ちを自分では上手く制御出来ない。
今にも暴れ出しそうでいて、怯懦に胸の内で震えている。早く離れなければ身が持たないと思うのに、もっと触れてほしいなどと思う自分もいる。見つめられると堪らず逃げ出してしまいたくなるのに、ずっとその瞳の中に住んでいたいとも思う。
生まれてはじめて抱いた。
何なのか、この矛盾だらけのおかしな感情は。
結局、ファティマは大人しく腕の中に収まっていた。そしてその首元に頭を預けたまま、何故か内に広がっていく多幸感のなかで口を開いた。
「ごめんなさい……私、はしたないことをして……」
「はしたない? 別に、そんな風には思わない。けれど今日はこのへんにしろ。風邪をひく」
そのまま岩場を抜け、平らな道に出るとレフはファティマをおろした。お礼を言わなければとレフを見上げるけれど上手く言葉が出てこず、凝然とレフを見つめる形になってしまう。
するとレフは少しだけ不思議げな顔をしたが、僅かに唇を弧にして「戻るぞ」とだけ、至極優しい声音でこぼした。
ファティマはたちまち、息が詰まるような気持ちになる。
どきどきと早鐘を打つこれは、生まれて初めて海を見た興奮によるものか?
歩き出したレフの背から手のひらへ視線を移すと、今日拾った貝殻がきらきらと瞬いている。
目も眩むほど青、潮の香り、波の音、触れ合う肌のぬくもりと自分を覗く榛色。
──ああ、そうか。私は……
あの月の光芒もない黒夜、レフが現れたときから、きっと心の何処で予感していた。
どう抗おうとも彼へと惹かれてしまう自身の胸の内に、やがてこの感情が生まれることは。
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