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⒌流転の果て
宿はいつものように貸切であった。
平屋の小さな宿ではあるが見晴らしの良い場所に建ち、部屋によっては窓から水平線を眺めることが出来た。
夜になると世話を焼いてくれていた宿の管理人夫婦も別にある自宅へと戻り、旅の疲れか皆早々に寝床に入ったようで、よりいっそう静まりかえる。
静寂のなかファティマは眠れずに窓際の椅子に腰かけ、外を眺めていた。ファティマの部屋からは今日歩き回った町が見える。
暗闇のなかで薄ら浮かび上がる白い家々の灯りはまばら、町はもう眠りにつこうとしている。
そんな町とは真逆に、ファティマはとても眠れそうになかった。今日海辺で感じた感情が心の中で鞠のように跳ねている。
祖国を出てからエレボスの町を巡り、ファティマの心は充足していた。
アーシェを忘れゆくことに罪悪感がなかった訳ではないが、この旅が確実に自分を変えた。いや、変えたというよりも、かつての自分に戻れたというほうが正しいのだろうか。
自分のなかにまだこんな感情が息づいていたのかと驚く。もっと見てみたいもの、知りたいことが際限なく湧き上がってくる。
こうしてレフと共にいれば、これからも色んなものを見たり、聞いたりして、知っていけるのかもしれない。
──それに何より、自分はレフの近くにいたい。
ファティマはぎゅっと目を瞑った。
まさか自分が、こんな気持ちを抱くなんて。
長い歴史のなかで過去一度だけあった例外を除けば、女神の片鱗となった女性は生涯を独り身で過ごす。
自分が誰か一人へ特別な愛情を向けるなど、当然一生ないものと思っていた、けれど……
不意に、扉を叩く音が鳴る。
ファティマはハッとして、慌てて「はい」と返事をすると「俺だ」とレフの声が返ってきた。
突然の訪問に驚きながらも、少し話があると言うレフを部屋へ招き入れる。椅子に腰掛けるよう促すも、すぐ済む話だからと断られてしまった。
なんとなく、ファティマもそのまま立ち尽くす。
矢継ぎ早にレフは口を開いた。
「エレボスの町をどう思った?」
「何処も、とても素敵な所でした。今後もっと活気づいて、鮮血の国との呼び名は、きっと近い将来変わるのでしょうね」
「……あなたは、好きな所へ行って良い」
「え?」
「好きな町へ行って、自由に暮らせば良い」
ファティマはその言葉の意味を頭の中で上手く咀嚼出来ずに、目を瞬く。それを察したのか、レフは後押しするように付け足した。
「あなたを解放する、と言っている」
ファティマは今度こそ目を見開いて、言葉を失う。
レフは表情を一切変えず、続ける。
「……別にエレボスじゃなくても良い。レイヌは小国だが平和な国ときいてる、国交もあるし何とか頼めるだろう。アーシェと国交のあったヘスペリデだと顔も割れている上に海神信仰と並行して女神信仰も強い、一般人として暮らすのは難しいだろうが、希望するなら何とかしよう。……アーシェに戻りたいのならそれでも良い。あなたが思う好きなところへ行け」
「私、は……漠然と、ずっとここにいるものだと思っていました」
「その必要はない」
ぴしゃりとそう言い切られ、ファティマは心が痛むのを感じた。
当然の言葉だ、レフはファティマを助けはしたが必要としていた訳ではない。
しかしファティマはもう自分の気持ちに気付いてしまっていた。
そしてもう、誰かの傀儡でもなかった。
言われるがままに生きてきた時とは違う、自らの意思の元に選択して、気持ちを紡ぐことに躊躇いはなかった。
「外の世界に出て、これからもっと色んなことを知って、私がやりたいこと、出来ることを、周りから与えられるのではなく自ら探していきたいと思っています。けれど……それは、あなたのそばで、が良いのです」
「……どういう意味だ?」
私、と次いでこぼしたファティマの声は震えていた。
アーシェから遠く離れてみて、気付いたことがあった。
「……私、本当は、心のどこかでアーシェを憎み、恨んでいたんです。何故、私だけこんな役割を押し付けられなければならないのかって。もっと自由に生きたいって……」
「…………」
最初の朝、馬車の中でレフにアーシェへ戻るかと問われたとき、もちろんだと即答出来なかったのは、結局はそういうことだった。
女神を演じる裏で、アーシェへの憎しみはいつの間にか人知れず育ち根を張っていた。必死に取り繕って女神を務めても、きっともう限界は近かったろう。
いくらそれらしく演じても、本物にはなれない。
自分は本当にレフの言う通り、女神の紋様がたまたまあるだけの、ただの人間の娘に過ぎないのだ。
そう気付かせてくれたレフは、ファティマにとって間違いなく特別だった。
リスクを侵しても自分を神殿の外へ出してくれたレフに、自分の力の限り報いたいと、自然とそう思えた。
「あなたは私を、色んな意味で救い出してくれた。けれど、結果的にはアーシェを侵略したことに変わりないあなたへ、こんな気持ち不道徳かもしれない。……でも強く思うのです。あなたのそばにいたい、そばで、あなたの力になりたい!」
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