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⒈奇しき侵略者
海に囲まれた孤島、コスモス島には五つの国が存在する。
北に位置する雪の国ニュクス。
南に位置する楽園の小国レイヌ。
東に位置する太陽の国ヘスペリデ。
西に位置する鮮血の国エレボス帝国。
そしてファティマの祖国、四国に囲まれる形で位置する女神の国アーシェ共和国である。
女神アーシェが天から海へ降り立つ際、海に触れたつま先から最初に現れた大地がアーシェ共和国が位置する場所であり、その場所を中心に大地は広がりコスモス島となったと伝わる。それゆえにアーシェ国民は女神を信仰している。
そして他国から神聖視される一番の理由として、国民の中にアーシェ女神の紋様の痣を持ち産まれてくる女子がいること。
その女子が後に女神の片鱗と呼ばれる女神の依代、代理として生涯神殿に暮らし、民からの言葉に耳を傾け、祈りを捧げられる偶像的存在となる風習がある。
"こうして途切れることなく女神の片鱗が現れるのは、女神が常に我らを見守っているから"
ただの伝承ではなく真に女神の加護を強く受ける国として、他国への侵略を繰り返していたエレボス帝国でさえ、天罰を畏れ手出しすることはなかった。
……昨夜までは。
ファティマは馬車に揺られながら、その薄青色の瞳を窓の外へ向けた。美しい赤みがかった金髪が、はらりと白皙の頬を撫でる。
もう夜が明ける。
あたりが段々と淡い青みを帯びていくけれど、まだ木々たちは深々としており葉擦れの音も鳥の囀りもない。車輪の音がうるさく響くだけである。
あの後すぐこの馬車に乗せられ、アーシェを離れ今やエレボスの山道を走っていた。
ファティマは向かいに座る人物へちらりと視線を移す。
あたりが明るくなるにつれ、燭台の灯りでは分からなかった榛色の瞳が黒夜の髪と同じくらいに印象的な、レフと呼ばれていたその男は流れていく窓の景色へ視線を向けていた。
昨夜ファティマの部屋へ押し入った、エレボス帝国の男。
エレボス帝国の歴史は血塗られている。
元は小国だが野心家であった歴代の王達が他国侵略を繰り返し、過去に二つの国を滅ぼしている。
侵略された国の民は一部の富裕層を除き奴隷として売買され、奴隷の数は一般国民よりも多い。繁栄と引き換えに国のあちこちで頻繁に奴隷達の反乱が起き、その度に鎮圧されていたが、三ヶ月ほど前、とうとう奴隷軍が帝国軍、王家を討ち果たしたのだ。
その奴隷軍を率いていたのが、元剣闘士の奴隷レフという男である……とファティマは神官長から報告を受けていた。
今目の前にいるこの男こそ、そのレフだ。
あの奴隷軍を率いていたのが、まさかこんなに若い青年だったとは。
──しかし、何故彼ら奴隷軍がアーシェを侵略するの?
考えられるとすれば、この国でしか発掘されない大地の女神アーシェの一部とされる美しい鉱石。あまり一般的に流通しておらず、かなりの高値で取引されている。その鉱石が目的なのか。
不意にレフがこちらへ視線を移してきて、ファティマはどきりとした。
考えごとに耽るあまり不躾な視線を送り続けていたと気付き慌てて目を伏せたが「言いたいことがあるのなら言えばいい」との声が飛んでくる。
ファティマは遠慮がちに、再び目線を持ち上げた。
「……アーシェを、どうするおつもりですか」
「アーシェはエレボスの領地になる」
「エレボスには充分な領土があるのに? 王家を討ち、それであなたがたの目的は達成されたはず。あなたには他国を侵略する理由がないはずです、それなのに何故」
「それはあなたに話さなければならないことか?」
お前に答えるつもりはない、という意味だ。
ファティマはこの話題を諦め、静かに「いえ」とこぼした。
「私をエレボスへ連れて行って、どうするのですか」
「俺の視察に付き合って貰う」
「……は」
予想だにしなかった答えに、気の抜けた声が漏れた。
視察に付き合う?
他国の、全く関係ない囚われの身である自分が?
意味が分からない。見せしめにでもするのか。
男の考えが一切読めず、ファティマは狼狽えた。
「何のために? 女神の片鱗として革命に傷ついた民を癒せということですか?」
「ふざけるな、あなたは女神じゃない」
険のある声音、ファティマはびくりと肩を震わせる。
「アーシェが滅んだ今、あなたはもう女神の片鱗じゃない。ただの人間の女だ」
──片鱗じゃない? でも、この紋様がある限り、どこへ行っても……。
ファティマは無意識的に、自分の首元へ手を動かした。
ペンダントを探すように惑いながらさ迷った後、諦めたように膝へと落ちる。
ペンダントを壊され、自分を制御する術を失い、更に今のレフの言葉が彼女の不安を大きく煽っていた。
幼い頃より自分は女神の片鱗だと心の内で言い聞かせ生きてきた。もちろん周りの人間も、それを望んで、求めてきた。
急に人間の女だと言われても、どうすればよいか分からない。どう振る舞えば良いのかも。今までの生き方を突然変えるのは難しい。
「……ただの人間の女であるというなら、そんな私を連れ回して何になるのです。片鱗として生きてきて、その生き方しか知らない、もはや何の価値もない女を」
「ならアーシェに戻って、また片鱗として生きていきたいのか?」
ファティマはぐっと言葉を詰まらせ、口を噤んだ。
女神の片鱗になったのは、自分の意志ではない。産まれつき左脚太ももに紋様があり、六歳になったときに有無を言わさず神殿へ連れていかれた。
そして今、片鱗ではなくなったのも自分の意志ではない。国民を人質にとられ、仕方がなく。
もし、もし本当に戻れるなら……?
不安に苛まれているであろう国民を安心させてやり、またあの場所へ納まるべきなのだろうか?
自分のことなのに自分の気持ちが全く分からない。
いつだって自分の意志は必要なかったし必要とされなかった。ただ女神らしく振る舞い、運命に身を任せてきた。
しかしこんな状況で、もちろんアーシェへ戻ると即答出来ない自分は、至極薄情で冷酷な人間なのではないか?
思い出せ、自分の役目を。
そう己に言い聞かせる。
それが女神の片鱗として産まれついた、自分の運命であり、使命だと。
ファティマは再び、自分の首元へ手をかざそうとした。が、それは大きく無骨なあの手に遮られる。
やめろと言わんばかりに手を握りしめ、じっと見つめてくる榛色の瞳は信じられないほどに優しげで、ファティマは気丈に振舞っていた気持ちがゆるみ、まるで助けを求めるように見つめ返してしまった。
初めて触れ合ったときにも感じた、この男に宿る害意ではない何か、時折ファティマへと向けられる敵意ではない全く別の感情。そこには優しさが含まれているように感じてしまう。
その向けられている感情の正体を掴めずに、ファティマはもどかしい気持ちになる。
──祖国を襲って自分を連れ去った憎むべき恐ろしい男なのに、何故こんな風に感じるの。
「……女神の傀儡になるな、自分で考えろ」
そう呟くように言うと、レフはそっと手を離し、窓の外へ視線を戻した。
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