10.たゆたう兆し

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「ファティマ様! おかえりなさい!」  自室へ戻ると寝台のシーツを整えていたノエがファティマに気付き、笑顔で駆け寄った。  ノエもあれからエレボスに残り、城の家事を手伝ったりしながらファティマと共にこの古城で生活している。 「ただいま、ノエ」 「お疲れ様です、お茶を飲んでちょっと休憩なさいませんか?」 「そうしようかな、ノエも付き合ってくれる?」 「もちろんです!」  ファティマが徐に机の上へ置いた書類を、ノエが目に留め「それは報告書ですか?」と些か興味ありげに尋ねてきた。ノエは以前からファティマがしている仕事に関心があるらしく、いつか手伝いをしたいと思っていて家事の合間を縫い勉強をしているようだった。  そんなノエを、ファティマは瞳を細め見つめる。妹の成長を嬉しく思うと同時に、どこか寂しくも感じるのだ。気をまぎらすようにノエの頭を優しく撫でながら「読んでみる?」と問うと、ノエは頰を綻ばせた。 「凄く分かりやすいですね」 「イサークがまとめてくれたの。彼は本当に仕事が早いわよね」 「…………」  ノエが無表情で黙り込む。それに気付いたファティマはしまった、と口を噤んだ。  イサークがファティマを攫うようヘスペリデへ手引きしたと知ったノエは、ファティマが居ぬ間にイサークとたいそう派手な喧嘩をしたらしく──ラーリャが見かねて止めに入ったほど──それ以来ノエの前でイサークの名を出すと場が凍る。ファティマの仕事にも度々このように関わってくるので、妬いている部分もあるのかもしれない。  ノエは報告書を乱暴に置き直すと、お茶を淹れて来ますと部屋を後にして、ファティマは苦笑しながらその背を見送った。いつかノエがファティマの仕事を手伝うようになったら、一体どうなってしまうのだろうと思いながら。  一息つくと、窓から微風が優しく髪を撫でていることに気付く。心地良い空間に充てられ、ファティマはぼんやりとこれまでのことを思い返した。  この一年、なんとかやってこれた。  ヘスペリデのことが心配ではあるが、今のところ動きはない。どうかこれからも何も起こらず、こんな穏やかな日が続けば良いのにと頭の片隅で考えていると、ぐらりと視界が揺れる。突然襲った倦怠感に、ファティマは思わず額に手を当て目を瞑った。  この頃、たまにこんな風に倦怠感が襲うことがある。最近夢見が悪く、眠りが浅いせいかもしれない。けれど肝心の夢の内容は覚えていないのだから呆れたものだ。自分は一体何に魘されているのだろう。  寝台で少し横になろうかと踵を返したとき──上手く力が入らず、足がもつれた。  冷たい痛みを覚悟して目を強く瞑る、が、温かで力強い何かに受け止められた。  強く閉じていた瞳をおずおず開ければ、間近に迫る、──榛色の瞳。 「スィン!」  安心する香りが鼻腔を抜け、ファティマは戸惑いながらもレフの──スィンの背に手を回した。  ぎゅっと柔い宝石を抱くように優しく抱きしめ返され、ファティマは少しだけ泣いてしまいそうになる。 「どうして、帰ってくるのは明日だと……」 「昨日一日早く調査は終わった。今日は地元の奴らと宴をするって話になったから、俺は参加せずラーリャ達を置いて一足先に帰ってきた」  ……自分に会う為に?  自分の為に一日でも早く帰って来てくれたことが嬉しくて、ファティマの頬は花開くように緩む。そんなファティマの頰をスィンが片手で包み込んだ。彼の愛しい癖。 「おかえりなさい」とファティマは無意識にその手へ擦り寄る。ファティマのその姿にスィンは「ただいま」と少しだけ表情を柔らげたが、未だ心配そうに目を眇めていた。 「体調が悪いのか?」 「いえ、ちょっと躓いただけなの」 「本当に?」 「うん、大丈夫」  今度こそ安堵した表情を作ったスィンは、ファティマの後頭部へそっと手を回し、顔を近づけてくる。鼻先が触れ合い、じっと覗き込んでくる榛色の瞳に、ファティマはようやくその意図を汲み取り、恥じらいながらも徐に目を瞑った。  ──唇が、重なる。  啄む口づけは段々と深く交わって、ファティマの身体はあっという間に力が抜ける。逞しい腕に支え抱きかかえられ、ファティマは安心して身体を預けた。  ああ、このまま、全てを委ねてしまいたい。  もっと求められたい。  自分はいつからこんな気持ちを持つようになってしまったのだろう。  ──ガチャリ。  不意に、陶器がぶつかる音が聞こえハッとする。  音のほうへ目をやれば、お茶を手にしたノエが顔を真っ赤に立ち尽くしていた。  しまったとファティマは慌ててスィンの腕の中から逃れるも時は既に遅い。ノエが目に見えておろおろとし出したかと思えば「あっ、私、えっと、そうだ、お茶の用意をしてきますー!」と、一目散に駆け出していく姿を、引き留める間もなく見送ったのだった。  夜の帳がおりた窓辺の椅子に腰掛け報告書に目を通していると、スィンが部屋を訪れた。  彼は寝台へ腰を下ろしながら、机に向かうファティマへ「何してる?」と尋ねてくる。 「今日イサークから貰った報告書に目を通していたの。これできっと農具の改良が捗るわ」 「そうか」 「食糧の供給が安定したら、次はやっぱり識字率を上げるべきかしら? 地域ごとに、地元のかたと協力出来そうならば協力して……」 「ファティ」  呼ばれた声に、スィンのほうへ視線を向ける。寝台の上でスィンは腕を広げ、ファティマを見つめていた。  恋仲になってから、時折スィンは幼い子どものように甘えてくる。例えば、今がそうだ。言葉少なだが、恐らく仕事よりも今は自分に構って欲しい、と言っている。  くすりと笑いが漏れた。しかしファティマも、本当は早くその腕の中へ戻りたいと思ってやまなかった。立ち上がって寝台へ近付き、大人しく腕の中に収まる。  湯浴みをしてきたスィンのまだ乾き切っていない黒髪がファティマの頬をかすめる。しっとりとした肌が遠い情事の記憶を思い出させて、ファティマは自分の身体が熱くなるのを感じた。 「ん、ふ」  じゃれ合うような口付け。くすぐったくて、ふふ、と零れるように笑う。次々と落ちてくる口付けを受け止めながら、ふと今日古城の女性達と話したことを思い出した。 「スィン、昨日はまだ南に居たの?」 「そうだが、それが?」 「ううん、何でもないの」  やはり、果物屋の店主の人違いか。  ぼんやりとそんな風に考えていたとき、ちくりと首筋に痛みが走った。  スィンが唇を這わせていたのだ。寝台へ身体を倒され、スィンに見下ろされる形になる。榛の瞳は切なげに、そして苦しげに揺れている。 「ファティ」 「ん……」 「会いたかった」  耳に唇を押しつけながら掠れた声で囁かれ、ファティマは頭から爪先までぴりぴりと痺れていくのを感じた。  自分も待ち焦がれていた、こうして際限なく愛されるのを。  赤く色づいた肩から、肩紐が落ちる。  スィンから与えられる悦びに抗うことなく耽溺していくファティマの身体が、シーツの波を泳いだ。
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