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今日訪れたのはエレボスの北東、アーシェとの国境に近いアルムいう街である。
今はもう息を潜めているが、エレボス一大きい円形闘技場が存在することもあり、街は旧帝都の次に活気づいていた。
その円形闘技場で剣闘士としてかつて活躍していたレフ達がこの街に入った時の歓迎は一際大きく、英雄の凱旋と言わんばかりで、それは彼らへの衆望が強く感じられるものだった。
レフ達がアルムの領土管理者達と共に今日の予定を確認しているのをファティマが少し遠目に見ていたとき、不意にスカートの裾がツンと引かれる。
振り返ると、そこには子どもが三人、爛々とした瞳でファティマを見つめていた。何事かと目を丸くするファティマへ、その内の少年が一人、意気揚々と話しかけてくる。
「ねーねー、おねえちゃん、レフの友達?」
「……ううん、違う。一緒にいるけど、あまりお互いのこと知らないの」
見慣れない人間がレフ達と一緒にいるなと、子どもながらに思ったのだろう。このアルムはレフ達と馴染み深い町のようだから、尚更か。
ファティマの答えに子ども達は一瞬不思議げな顔をしたが、ならばと言わんばかり言葉が堰を切る。あまりの勢いに、ファティマは思わず少し仰け反った。
「レフはねー、すっごく強いよ! ここの円形闘技場で一番の剣闘士だったんだから! 奴隷なのにエレボス民にも人気者だったんだ」
「おれらに文字も教えてくれるし、遊んでくれるし、すごく優しいよ」
殺し合いが娯楽として提供されていた、この町の円形闘技場、レフはそこで負け無しの剣闘士だった。
そんな苛烈な生死のやり取りのなか生きてきたはずの彼だが、子ども達の前では優しい青年だという。当然だが無愛想なレフしか見たことがなかったファティマは意外に思った。
きっと、子ども達にとってもレフは英雄なのだ。
楽しげに誇らしげに話してくれる子ども達が微笑ましくて、ファティマは膝折り視線を合わせる。
そうすると、はしゃぐ少年達の間から一人の少女と目が合う。
少女は気恥しそうにファティマを見つめていて、子どもらしい好奇心はあるけれど知らない相手への緊張や遠慮もあるのだろうと感じたファティマは、気持ちを解いて欲しくて無意識的に微笑みかけた。するとたちまち少女は頬を桃色にして、しかしおずおずと前へ踏み出してくる。
「おねえさん、とってもきれい。どこの人?」
「アーシェから来たの」
「そのきれいな赤みがかった金髪は生まれつき?」
「そう。そう言って貰えて嬉しい」
「あなたの新緑のような瞳もとても綺麗」とファティマが言うと少女は嬉しそうに相好を崩す。
ファティマの優しい物腰に、すっかり緊張が解れたらしい少女は、わたしもレフのこと教えてあげるねと内緒話をするようにファティマの耳元へ顔を寄せ、手を添えてきた。
「レフね、女の人にも、すごーく人気だったんだよ。でも結局誰もレフの一番にはなれなかったんだって、大人が言ってたの。でもね、でもね、わたし、おねえさんがもしかしてそうなんじゃないかなって思って。だって前にレフが……」
「ファティマ」
少女の言葉を遮って、背後から声が降ってくる。
振り返れば、レフがこちらを見下ろしていた。
ラーリャ達は既に歩き始めており、領土管理者達との調整が終わって早速移動するのだろう。
そんな事情を知らない子ども達が嬉しそうに「レフ遊ぼ」と駆け寄ったが、レフは「また今度」と軽くいなしてから、ファティマへ手を差し出してくる。
数瞬、手を取るか迷う。仮にも祖国を侵略した男の手を易々と取る訳にはいかず「自分で立てます」とレフの手を借りず立ち上がった。
その瞬間視線が交わった榛色の瞳が、とても寂しげに見え、驚く。
──どうして、そんな寂しそうな顔をするの?
ファティマはその瞳に何故か既視感を覚えて、ぼんやりと見つめていたけれど、レフのほうから逸らされてしまった。
まるで、身を残すようにレフは離れていく。
片時も離れたくない、そう言われているようで、ひどく戸惑う。ファティマ自身も離れいくその背を見つめると、僅かに寂しさを感じ、自分の胸の内にぽっかりと穴があく感覚に陥った。
どうしてこんなに気持ちになるのか、自分のことなのにファティマには分からない。
──随分と昔に、同じ気持ちになったことがある気がする。一体いつだったかしら?
あの寂しげな瞳も、自分はいつかどこかで見たことがあるのだろうか?
「おーい、もう行くぞ」
ラーリャの呼び声に、ハッとファティマは思考の波から現実に引き戻された。
結局既視感の正体を突き止める暇もなく、少し先で立ち止まっているレフ達を慌てて追う。
歩いていく彼らの姿を子どもたちが「またね」と見送った。少女には少し離れて並び歩くファティマとレフの後ろ姿が、おとぎ話の絵本の一頁のように見えた。
そしてぽつりと、ファティマに伝えきれなかった言葉の端を紡ぐ。
「とっても大事なひとがアーシェにいるって言ってたの。きれいな赤みがかった金髪の、妖精みたいなひとだって」
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