16.戦い -虚像の聖地より-

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 愛しい女神が消え、失意のまま海底で眠りについた。  暗夜に灯火を失ったかの如き喪失感が、ただただ胸を苛む。なんてことをした、と人間に憤る気持ちすら湧かぬ。永遠に失ったと知ったときに、感情の殆どが抜け落ちてしまったかの如く。  襲いくる虚無感や欠落感から逃れるため、夢の中へ逃げ込んだ。夢の中だけが失った苦痛を忘れられる。夢の中だけが、唯一彼女に会える場所でもある。  夢に見るのは若かりし頃の彼女ばかり。ふたりしてまだ開拓もされていない草原を駆け回っていた、はるか遠い思い出。その世界にひたすら閉じこもっている。彼女へ親愛の口づけをして、返されて、あんなにも幸福であったのに、続くと信じてやまなかった幸福はどこで歪み、ここまで形を変えてしまったのか。  彼女が初恋を知ったとき?  彼女に思いを告げ、兄妹のように思っていると返されたとき?  彼女が自分の元から去ったとき?  それとも、それとも──  いや……よそう。夢の中でまで、そんなことを考えるのは。今は何も考えずにこの夢に身を預けていよう。そう思ったが──草原でふたり隣り合って澄み渡る空を見つめていたとき、不意に彼女がこちらを向き穏やかな笑顔のまま濁声を吐いた。 「親愛では飽き足らず、情愛まで無理矢理に求めた結果がこれよ」  勢いよく目を見開いた先は、暗晦である。  ルカは夢から追い出されるようにして目を覚ました。暫し茫然としてから、深海の洞窟で頭を抱え項垂れる。  ──夢の中ですら、俺を拒絶するのか。  閉塞感に囚われ抜け出せず、むなしく喘いだ。そんな状態であったから、在るかどうかも分からぬ程度の余燼のような気配、を現実に微かに感じ取っていてもルカは煩わしく思うだけだった。どうせ、くるおしい気持ちが見せる幻だ、と。  けれどあまりに永く断続的に、その存在は見え隠れする。そのうちルカは、消えぬ幻ならばそれに溺れてしまおう、と考えるようになった。  何百年かぶりに、地上へと上がる。  その足は漫然と、アーシェの地と呼ばれた島の中心部へ。町は記憶にあるよりも栄えており、整然とした町並みの奥には一際大きな建物が建立されている。人々はそれをアーシェの神殿と呼んでいた。神殿前の広場には多くの人々が集まり、ちょうど神事が行われているようだ。  ──アーシェを消滅に追いやっておきながら、まだ信仰の真似事をしているのか。  ルカは心中でそう毒づいた。深く外套をかぶり気配を消し人混みに紛れ、美しい竪琴の音に合わせ広場で舞う踊り子達を見つめる。  神殿前には数人の神官、そしてその中央に年若い少女。やがて踊り子達の舞が終わると、少女は柔和な微笑みを浮かべ、一歩前へ出る。胸元には雫型のペンダントが揺れていた。 「国の安寧、民の幸福、五穀の実りを祈念した燦たる舞、謹んでお受けいたします。(たっと)きアーシェ女神の名代として、わたくしがお応えいたします」  再び竪琴の弦が揺れる。  その音に合わせ、次いで少女がふわりと舞う。  周りから感嘆の溜め息が聞こえるなか、ルカの瞳は大きく見開かれた。それは少女の舞に目を見張ったからではない。  少女の中に、アーシェの欠片を見出したからである──。 「お前も俺のものになるはずだったのに」  その声はセイレンのものではなかった。  いや正確には、セイレンの声音ではあったが、口調や声の抑揚、全てが普段の彼ではなかった。数瞬の間に、彼の紺碧だった瞳は黄金に塗り潰されている。それが、全てを物語っていた。  海神ルカはいつの時代からか人間のなかに紛れ──アーシェの欠片を求めていた。  自らも欠片となり、自分と馴染みやすい子孫にあたるヘスペリデ王家に祝福と称した『呪い』をかけた。王家の直系を主とし、その呪いもまた綿々と続いてきたのだ。  遠い過去に一度だけ女神の片鱗がヘスペリデの王と夫婦となったことがあったが、この長い歴史の中で本当はあったのではないか。たまたま明るみになったのが神殿の記録に残っているものだけだったとしたら。共和国もとい神殿と懇意にしていたヘスペリデ、その王なら、不可能ではない。ファティマは自らの背筋がぞっと凍るのを感じていた。  アーシェが人間の皮を被ってしか生まれぬのなら、自らもそれと同等の存在となる。それがルカの主張だ。そして自らの手の内に入らぬ欠片は殺すと言う。  もし手に入らずとも片鱗は本来なら生涯独り身を貫くはずだった、だがファティマの代でそれが覆った。間接的とはいえアーシェが誰かのものになることを、ルカが許すはずもない。 「欠片でさえも、誰にも渡さぬ」  目の前のセイレン──否、ルカの言葉に、ファティマは嫌悪を覚え奥歯を噛む。  本当に、なんて身勝手な男なのだろう。  アーシェの尊厳をどこまでも踏み躙り、欠片となった彼女までも貶めているとどうして分からない。  ファティマは我慢ならず「あなたのその執着が、アーシェ女神を追い詰めたと何故分からないのですか」と言い放った。普段の穏やかな声色とは程遠い、強い怒りを孕んでいる。  しかし、やはりルカは歯牙にも掛けない。 「アーシェを欠片になるまで追い詰めた決定打はお前たち人間だろう。それを棚に上げて神を罵るなど、片腹痛いわ」  ファティマは途轍もない遣る瀬無さに駆られる。アーシェの苦しみを想うと、やりきれない気持ちになるのだ。  仮にも大神に、こんな態度や考えは無礼なのかもしれない。けれどアーシェを失ってもなお自らのあやまちに気付けないこの男を、奉るべき大神とはもう思えない。  瞳を固く閉ざし、いたたまれないという風にファティマは顔を逸らした。そんなファティマに興醒めしたのかルカも自然と視線をはずし、ファティマの隣にいたナンナルに目を留め、眇めた。 「お前はアーシェとシルヴァの子だな。アーシェと瓜二つだ」  眼差しは心なしか先ほどよりも優しい。ナンナルにアーシェの面影を見出し、彼の心が僅かに凪いだのかもしれなかった。  しかしそれは数瞬の間で、すぐに端正な顔を醜く歪め、嘲謔するように笑う。 「お前は身体中を槍で貫いて、そのままの状態で海に沈めてやる。お前たち全員、その足でこの地を出ることはないだろう」  そのとき──スィンがファティマの手を強く引いた。 「神殿から離れろ!」とスィンは焦燥だった様子で叫ぶ。ファティマは訳もわからず、スィンに手を引かれ神殿やルカ達からも距離を取る。ナンナルも理解が及ばないまま、それを追った。  すると、それほど間を置かずして殿多数のヘスペリデ兵が姿を現したのだ。  驚愕の表情を浮かべるファティマ達を見、ルカは「お前たちのやり方を手本にさせて貰った。感謝するよ」と嘲弄した。  ヘスペリデとの国境にはエレボス兵がいる。国境を越えることは当然容易ではない。故に彼らは東の海からニュクスに入り、そのままニュクスの南沿いに馬を走らせ、エレボスと共和国の渓谷へ向かった。そしてあの隠し通路から神殿内へ侵入したのだ。  スィンがファティマをヘスペリデの王宮から助け出したときと、ほぼ同じ手段である。隠し通路に関しては、神殿関係者とヘスペリデ王家のみが知るものだった。  ──……私の落ち度だわ。まさかここまで見境のない強行的な手段に及ぶとは予想出来ず、ニュクス側の守りをお願いすることを怠った。  悲痛な面持ちで、ファティマは拳を握る。同時に、この暴掠の王にここまで付き従う側近や兵士がいることに、驚きを禁じ得なかった。  全員がアーシェを消滅に追いやった共和国の人間を懲らしめたいという思いなのだろうか。全ての始まりは、自らが付き従う王だとも知らずに。  ルカがひどく冷めた目つきで、頤使する。  それを合図に──ファティマ達へ兵士の刃が降りかかった。  受け止めたスィンが剣を押し返し、そのまま相手の喉元を切り付ける。倒れゆく兵士の両脇から、畳み掛けるようにすかさず別の剣が降る。二振りの剣筋を避け、柄頭で一人の喉を突き、もう一人の懐に飛び込み脇下へ剣を刺し込んだ。呻いて倒れた兵士の剣が、円を描き地を滑っていく。  そこで一旦、攻撃が止んだ。  手と剣に纏わり付いた血を振り払い、スィンは背後の二人を庇いながら周りを睥睨する。  スィンの実力を既に知っているからか、兵士達は以前よりも格段に慎重だ。加えて前回あの人数の殆どをスィン一人に伸されたことを考慮したのか、今回は全員が重厚な鎧を着けている。動きは遅いが、より的確に相手の肌が晒されている箇所を狙わなければ確実に倒せない。  スィンのこめかみに、僅かに汗が滲んだ。 「ファティマ、ナンナルと町の中へ! 走れ!!」  スィンが声を荒げる。確かに町の中なら、この障害物のない広場よりは身を隠せる場所もあるだろう。  スィンの気持ちを汲んだナンナルがファティマの手を引く。しかしファティマは剣戟を振るうスィンを見つめ、動こうとしない。その瞳は至極不安げな色に揺れている。 「スィン……ッ」 「ファティマ、行こう!」 「スィンを置いて行くなんて出来ない!」 「俺達が居たら自由に動けなくて戦い辛い、だから……」  その先の言葉を紡ぐことなく、一瞬ののち、ナンナルが勢いよく倒れ込んだ。  突然地に伏したナンナルをファティマは反射的に目で追う。倒れたナンナルの胸と肩には矢が突き刺さっており、ファティマは驚きのあまり喉を引き攣らせ膝をついた。あたりに視線をめぐらせれば、兵士達に紛れ弓兵がいる。 「ナ、ナンナル……しっかりして! ナンナル……!」  安易に触れていいものか分からず、手がナンナルの周りを彷徨う。  血は全く滲んでいない。ナンナルが以前言っていた通り、外的要因で命を落とすことは恐らくないのだろう。しかし矢の衝撃か、倒れたときに打ちどころが悪かったのか、原因は分からないが気を失っているようだ。ファティマの声に応えはない。  そうして必死にナンナルへ声をかけていたから、ファティマは気付けなかった──剣を抜きながら、背後へと近づく影に。  兵士達の合間に目を凝らしたスィンは、飛び込んできた光景に肝を潰した。  倒れているナンナル。傍で膝をつくファティマ。そしてその背後に迫る影。  瞬く間に血の気が引き、指先が冷たくなっていく。 「退()けえ!!」  飛びかかるようにして振り下ろした剣は、相手の頭の甲冑もろとも打ち砕く。衝撃に耐えきれず、剣が弾け飛ぶように折れた。  それを好機とみなした兵士達がたて続けに襲いかかる。スィンは一人の頭部に踵から蹴りを入れ、折れた剣を素早く逆手に持ち直し勢いよくもう一人の首元に突き立てた。  その強さと気迫に、誰もが気圧されている。けれど思ったように人数を減らせず、薙いでも薙いでも道が開かない。兵士達の合間を縫って見える愛しい存在が、果てしなく遠く感じられる。  あの男の爪牙が今にもファティマに降り掛かろうというのに、自分の手は、彼女に、届かない────  スィンの胸中を、冷たく暗澹とした絶望が、ひたした。 「ファティマアアァ!!」  慟哭にも似た呼び声が、広場にこだまする。  その声に我に返ったファティマが、声のほうへ視線を移そうとしたとき──突然、息が出来なくなる。  身体の真ん中が酷く熱い。  上手く息を吸えない。  周りの喧騒が……遠い。 「さっさと次代に譲れ、役目を放棄した売女が」  ファティマが僅かに視線を下げると、自分の腹のあたりから、剣が、突き出している。  背後から回されたルカの腕が首元に置かれ、ファティマを抱き締めるように引き寄せた。  そうすると更に深く、剣が身体を貫く。  真白の服に、鮮血が広がる。  ファティマは──口から血を吐いた。
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