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17.ファティマ
『可哀想に。お前の人生って、何だったのかしら』
神殿内、神々の彫像を飾る複数の壁龕。そのうちの一つには高い背凭れが特徴的な大理石の椅子が置かれており、幼い少女が腰をおろしている。
遠巻きに少女へ祈りを捧げる者達。
自らの話を聞いて貰おうと列を成す人々。
少女は時折相槌を打ちながら、静かに耳を傾ける。
やがて夕暮れどきになると、神殿から人々の足は遠のき、少女も一日の務めを終える。
広場で遊んでいた同じ年頃の子ども達が家路を急ぐ姿を、少女は神殿の中からじっと見つめていた。
『何故、私だけが。自由になりたい。そう思っていたわよね?』
「……まるで怪物だな」
ルカの見下げ果てた視線の先。地に伏して動かぬ者、倒れ呻きもはや動けぬ者、震える身体でかろうじて地に立つ残りの数兵は、祖国で臆病者と誹られることだろう。そのような数多のヘスペリデ兵達を背に、この場の誰よりも血に塗れ、広場に立っている男──スィンは己の絶望を叩きつけるようにして、彼らを見るも無惨に薙捨てていったのだ。肩で息をしながらも、常軌を逸した凶猛さを持って睨め付けてくるスィンを、ルカはなおも至極冷ややかな目つきで見ている。
「怒りに任せて捩じ伏せたか。だが、もう遅い」
ルカは己の立ち位置をずらし、スィンに見せつけるようにして、倒れているファティマを彼女の血に濡れた剣で指した。
スィンは怯えた獣のように身体を強張らせ、息を呑む。
愛しむ存在が、血を流し小揺るぎもせず地に横たわっている。二目と見られぬ光景に、スィンの瞳には悲愴が滲んだ。息が乱れ指先は震え、惝怳し思考が混濁していく。
今すぐファティマへ駆け寄り、置いていかないでくれと縋り付きたい。
いや、その前にあの男を殺して……殺して、殺して、殺して、殺して、殺して。その後にファティマを抱き上げ頬を撫ぜたら、自分も、死────
暗然とした思考に呑み込まれかけていたスィンの瞳が、突如見開かれる。瞳に微かな光が差し、茫然とした面持ちで「ファティマ」と呟いた。
次いで、ルカが瞳を見開く番であった。スィンの様子に怪訝な顔をつくり、彼の視線の先を追いゆっくりと傍らへ視線を落とす。
ぞくりと、ルカの背筋に悪寒が走った。
地に手を付き、身体を起こしている。
殺したはずの女が──。
「……アーシェ」
その名を呼んだのが合図であったかの如く、ルカの足元が爆ぜた。
身体が宙を舞い、瞬く間に広場に叩きつけられる。打ち付けられ煩悶するルカを尻目に、ファティマはゆらりと立ち上がった。
いっそう静まり返った広場。
全員の視線が、ファティマへと集まる。
死を覆し王を打ち散らしたファティマを見、ヘスペリデ兵達は震撼している。彼女の晒された傷跡と、血に染まった服が禍々しい。鎌首をもたげるようにして顔を上げたファティマの瞳は、黄金色に強く光渦巻いている。似つかわしくない無慈悲な面持ちで、そのまま横目にルカを見遣った。
「良いざまね、ルカ。人のいないこの地で事を済まそうとしたのでしょうけど……内地はあたしの領域よ」
そう言い捨て、軽快に踵を鳴らす。
すると──ファティマより少し離れた場所から、一筋、地割れが走った。
大蛇が這い襲いくるかの如く自分達のほうへ向かってくるそれに、ヘスペリデ兵達は声を上げて逃げ惑う。やがて神殿まで到達した地割れは、幾星霜続いてきた罪の象徴を呆気なく倒壊させた。恐ろしい地鳴りと建物が崩れいく音が響き渡り、圧倒的な力を目の当たりにした周囲には消魂が渦巻いていく。
地の揺れに誰もが膝をつくなか、平然と立ち続けているファティマ──その姿を借りた、かの女神の存在に、誰もが気付いていた。
「人間よ、誰を前にして顔を上げている。額付きなさい」
多くが恐れをなして頭の前で手を組み、地に頭を付ける。
爆ぜた瓦礫を受けたうえ地に全身を打ちつけた痛みに堪えながらも僅かに身体を起こしたルカは、その光景を見て薄らと笑った。
ルカはファティマ達を始末した後、次代からの片鱗はヘスペリデが管理するよう各国へ主張するつもりであった。そうして、逃げも出来ないアーシェの欠片を自らの手の内に入れるつもりだったのだ。
──まさかこんな今際に、表に出てくるとは。
どこまでも思い通りにいかない女。アーシェを見つめるルカの微笑みには、どこか自嘲が込められていた。
そんなルカの視線を遮る影が、ひとつ。この揺れ動く大地をなんとか駆け、アーシェの元へ辿り着いた人影があった。恐れも知らずとばかり些か乱暴に彼女の両肩を掴む。黄金の瞳と、榛色の瞳が、深く交わった。
「やめろ! これ以上ファティマを苦しめるな!」
ファティマから出ていってくれ、頼む、と懇願し、スィンは項垂れる。しかし、アーシェの答えはどこまでも無情だった。
「死にゆく身体が、何に苦しむというの?」
背後の町で、次は家々が崩れいく。
正しく、この国の終焉だとでも言うように。
『その紋様を誇りにお思いなさい。あなたはこれから偉大なるアーシェ女神の名代を、その命尽きるまで務めることとなります』
厳しい目つきでそう言い聞かせてくる神官長を前に、少女は神妙に頷いた。
今日から自分は自分ではなくなる。アーシェ女神の一部として、常に彼女が何を思い何を考えるかを第一に生きていくのだ。自分の考えや気持ちは不要である。
『その務めに関わること以外で、神殿から出ることは今後叶いません。けれど自由に代わり、あなたはこの世で一の名誉を得たのです』
名誉よりも、遊び疲れて帰る家が欲しかった。
自由に旅する吟遊詩人のように、色んな地を自分の足で歩いてみたかった。
でもアーシェ女神の代理として、一生を生きて死んでいく。何代もの片鱗達がそうだったように。
既に自分という存在が酷く曖昧で、朧げだ。女神の名代という意識と、外の世界に対する妬みや憎しみだけが残っている。
かわいそうね。
お前とあたしはよく似ている。
そんな声がひたすらこだまする。
少女は自らの胸元を探り、雫型のペンダントをぎゅっと握りしめた。
──私は女神の名代。それに徹するだけ。でもなんで私だけ? 同じ年頃の子ども達は皆あんなに楽しそうにしているのに。
憎い、祖国が。アーシェの民が。
滅んでしまえ。何もかも。
──これは私の気持ち? それとも他の誰かの気持ち? もう、よく分からない……。
けれど何かを考えるより、この衝動に身を任せたほうが至極楽な気がしていた。そもそも自分の考えなど女神の片鱗には不要。思考さえも手放してしまったほうが至当だ。
『……女神の傀儡になるな、自分で考えろ』
──ハッとする。
これは一体誰の言葉であったろう。少女は声がしたほうへ目線を向けた。
馬車の揺れに合わせて靡く黒髪。ペンダントを掴む手を引き止める、骨ばった大きな手。こちらを見つめる──優しげな榛色の瞳。
これはいつの記憶か?
誰の記憶なのか?
片鱗でいなければいけないのに、ちゃんとしないといけないのに、誰かがそれを妨げてくる。少女は魘されているかの如く頭を振り、苦しげに頭を抱えた。
記憶に暗く冷たい靄がかかり、至極大切なことを忘れている気がする。死んでも忘れてはいけないことを、忘れている気がするのだ。
懊悩し俯く少女へ、傷だらけで薄汚れた子どもの小さな手が差し出された。霞む視界で、ぼんやりとその手を見つめる。手は思い悩む少女の頬を、そっと包み込んだ。
『片鱗である前に、ファティはファティだから』
──ああ、そうだ、私は……
頓に、自分が何者であったかを、鮮明に思い出す。
神殿から寂しげに外を見つめていた少女はもういない。自分は手を引かれ檻の外へ出たのだ。己の意思で自らが立つ場所を決め、ここまで歩んできた。あの榛色の瞳に見守られながら。
──私は、女神の片鱗じゃない。
私は私以外の誰でもない。
私の心までも、殺させない。
彼が……スィンが愛してくれた、ファティマという私を、絶対に、失ったりしない!
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