17.ファティマ

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 地響きが、不意に止んだ。  項垂れていた頭を、スィンはやおら持ち上げる。目の前のファティマを見つめると、瞳から黄金の輝きがふっと消えた。力が抜け倒れていく身体を、スィンが咄嗟に支える。 「ファティマ! ファティマ……!」  懸命な呼び声に返事はない。スィンの腕の中で、ファティマは静かに瞳を閉じたままでいた。  寒く──暗い場所である。  気が付くと、ファティマは其処に一人ぽつねんと佇んでいた。天と地もあたり一面真暗闇ではあるが、何故か自分の姿は闇のなか淡く浮かび上がっている。  ああ、やはりだめだったわね、という声がどこからともなく聞こえ、ゆっくりと視線を持ち上げ声が聞こえた暗闇へ目を凝らす。暗闇に紛れ、何かが蠢いている。 「お前の身体とあたしの欠片はよく馴染んだけれど、境界を失くしてしまえなかった。まさかその身体の状態からあたしの支配を跳ね除けるとは」  アーシェ様、とファティマは暗闇へ声をかけた。がアーシェだと、ファティマには何故かすぐに分かった。ファティマの声に答えるかのように暗闇で黄金の双眸が瞬く。  アーシェを前にしても、もう畏れを感じることはない。それは自身が人の身から離れかけているからだと、ファティマは気付いていた。  残された時間は少ない。  やるべきことをやらねば。  ファティマは地に膝をつき、両手のひらを上に向け、恭しく、アーシェへ(こうべ)を垂れた。 「アーシェ様、我々先祖のあやまち……とても、慙愧に、堪えません。ですが、出来ることなら、お赦し頂けるなら、その贖いを」  どうかさせて頂きたく、と続ける前に、必要ない、と言う至極抑揚のない声が響いた。  暗闇から息も出来ないような重苦しい気配が這い出て、近付いてくる。手の形をした闇がファティマの顔にじっとりと纏わり付いた。  触れた部分からじわじわと侵食されている感覚がある。しかしファティマは身じろぎもせず、その手を振り払うこともしなかった。 「罪民を匿ったエレボスも、全て、全て、殺し尽くしてやる……」  間近でアーシェの声が響く。その呪言を聞き、たまらずファティマは顔を上げた。頬に触れるアーシェの手に己の手を重ね、前を見据えた瞳はしっかと黄金の瞳と交わる。やがて切願するような声音でファティマは言った。 「おやめください。もう、これ以上ご自分を傷付けるのは……」 「何を言っているの? 傷付くのはお前たちのほうよ」 「いいえ、傷付いていらっしゃいます」  手が段々と黒ずんで闇に溶けていくのも構わずに、アーシェの手を握りながらファティマはおもむろに首を横に振る。  アーシェの瞳が嘲りに歪んだ。ただの人間の娘が、神の気持ちを代弁するなど滑稽である。  しかしファティマは引かなかった。 「お前に何が分かるの? 笑わせないで」 「その御心にそぐわないことをされています」 「あたしの心を分かったつもり? 思い上がりも甚だしいわ!」 「でも……泣いておられました!」  ファティマの決死の言葉に、アーシェの瞳が僅かに怯んだ。戸惑いを表すかのように、闇が揺れ動いている。ファティマはぎゅっとアーシェの手を強く握った。もう肘までも黒ずんでいたが、手を離そうとはしなかった。  アーシェもシルヴァと同じく、民が苦しみ抜いて死にいくことを望んでいるのだと思いもした。けれど──アーシェは何度もファティマの夢に姿を現した。夢に現れるかつての美しい姿のアーシェは、その睫毛を涙で濡らしていた。こうして現れるのは何か理由があるはずだと、ずっとずっと考えていたのだ。  アーシェは何を思い、何を考えているのか。  奇しくもそれは片鱗として何度も繰り返してきたこと。ファティマのその経験は、アーシェの真意を導き出した。 「本当に民を呪い国を滅ぼしたいだけなら、あんな風に夢に現れる必要などなかったはずです」  力を振り翳し民を殺めれば、或いは呪いによって彼らが淘汰されれば、彼女は満足するのだろうか?  そもそも、これは本当に彼女が望んだ事態だろうか?  優しさを踏み躙ったうえ、彼女をこのような衝動へ導いたのもつまるところは人間。を行使したのはアーシェだけではない。人はアーシェを傷つけることで彼女に呪いをかけたのだ。永遠に他者を恨み貶める思考に囚われ続ける呪い、を。  その思考は本来のアーシェの性質とは真逆である。憎しみに呑まれ覆い隠されたアーシェの本質的な部分は、その繰り返される苦しみから逃れたいと願っていたのではないか。だからアーシェはこうしてファティマと対話する機会を作ってくれたのではないか。  ファティマは再び頭を垂れ、アーシェの手を握ったまま、その手の甲を己の額に当てた。  アーシェの気持ちを想うと声が詰まりそうだった。しかし自分は感傷を晒して良い立場ではない。ファティマは気持ちをぐっと押さえ込んで、努めて冷静に放つ。 「アーシェ様の優しさ、お心遣いを裏切り、傷付けた先祖の行いを深く恥じております。彼らはあなた様を縛りつけるのではなく自由を尊重したうえで、ただ、こう言うべきでした」  握る手に力がこもる。指先が震えてしまう。  一拍を置いて──遥か遠い昔に言うべきであった言葉を、ファティマは女神へと捧げた。 「──ありがとう、と」  神事で述べる祝詞(のりと)のような、どこまでも透き通った声音だった。 「慈しみの眼差しに、恵みの大地に、感謝しております、と」  祈るように瞳を閉じていたファティマは、周囲の異変に気付き瞼を持ち上げた。のしかかるような重苦しさが消え、肩が軽くなっている。額を離すと、黒ずみが消えた自分の手の内には、美しい白皙の手があった。少しだけ目線を持ち上げると、波打つ赤髪を揺らし、暁光のような光を湛える瞳から一筋涙を流すアーシェがいる。 「アーシェ様……」  我慢出来ず、とうとうファティマの瞳からも涙が伝った。  改めて、アーシェの優しさを踏み躙った者たちの罪は、どれほど深いだろう。彼女の傷はきっと癒えない。つまりは民を呪う以前の彼女に完全に戻ることは永遠にない。  愛しているのなら自由を、愛されたのなら感謝を。古代からの当然の習わしだったはずなのに。  ぽろぽろと涙を溢すファティマは、震える声音で続ける。 「感謝しております。私を片鱗に選んでくださったこと、こういった機会をお与えくださったことを」 「やめて!」  アーシェの表情が、悲痛に歪む。ファティマの手を振り払い、あたりの暗闇が、一際大きく揺らぐ。 「もうやめて……!」  その瞬間──全てを消し去る如き真白の光が、ファティマを包み込んだ。
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