17.ファティマ

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 突然あたり一面真白の光に包まれた。  ヘスペリデ兵達は己を庇うように手を翳している。これ以上の災いが起きぬよう願いながら、誰もが光が鎮まるのをただ待っていた。  長い一瞬を終え、風の音が戻り陽の光が降り注ぐのを感じ取って、反射的に瞳を閉じていたスィンもゆっくりと瞼を持ち上げる。  すると少し離れた前方に──見知らぬ女が、地に手をつき座り込んでいた。  項垂れ長髪に隠された顔は窺えない。深みある赤い髪、陽の光に反射する白い肌、しかし指先や爪先は光を殺す黒を携えている。地に膝をつきファティマを抱きかかえていたスィンは、女から庇うようにファティマを更に強く抱き寄せた。突如現れたこの女は誰なのか、思考巡らすまでもなく広場に答えが響く。 「アーシェ……!」  ルカは目を見開き、喫驚した様子で女を見つめていた。  何故突然女神が姿を現したのか、それがどういう意味を成すのか。  スィンは暫くアーシェを凝視していたが、腕の中で微かに身じろぐ気配を感じ取り、急ぎ手元へ視線を落とす。  頑なに閉じられていたファティマの瞳が、うっすらと開いている。ファティマと叫ぶと、薄青の瞳はゆっくりとスィンを捉えた。  ゆるやかに、ファティマは唇を弧にする。  しかし、傷口からは再び血が流れ始めている。今こうして意識を持って目を開けているだけでも奇跡的だ。この状態がどれほど致命的か、多くの戦を経験してきたスィンが分からないはずがなかった。  スィンの顔が凄絶な悲しみに歪む。スィンとファティマが初めて会ったとき、あるいはそのとき以上の、強烈な恐怖、戸惑いが見てとれた。  ファティマは唇を開くが、ただ息が溢れただけで声にならない。言葉に代わり、力を振り絞り鉛のように重い腕を持ち上げ、スィンの頬を撫でる。親指の腹をふわりと滑らせ、熱のこもった目元を慰めた。  応えるようにスィンもファティマの頬に震える手を置く。愛しい体温と感触を刻むよう、殊更丁寧に彼女の頬を慈しんで。そして、ファティマへ向け、精一杯、微笑みかける。そうしなければならない、とスィンは本能的に感じ取っていた。それを見たファティマは、安心したように相好を崩した。  ──スィン……本当に、ありがとう。  誰に対する怒りも恨みもない、不思議と至極坦懐な気持ちだ。  自分以外の何者でもないという確固たる気持ちを持てたからこそ、片鱗として過ごした日々を敬遠することなく努力し培った経験として今はもう受け入れられる。それに片鱗であったから、スィンにも出会えた。  これまでの全ては、自分が自分となるために必要な過程だったのだと思える。そう思えるのは間違いなく、スィンがその道のりに寄り添ってくれて、絶え間なくファティマへ愛情を注いでくれたからだ。  ファティマとして過ごし愛し愛された時間が、今までの自分の生を肯定してくれる。  これ以上なく幸運で……幸福だった。  スィンに出会えて、幸せだった。  ファティマは瞳を眇め、スィンを見つめる。  視線と手のひらに、心中の言葉を込めて。  そして苦しげに、は、と強く息を吸込み────次いで息が吐き出されることは、なかった。  ファティマの手はスィンの頬から滑り落ち、薄青の瞳からは彼女の気配が消える。  スィンは縋るように名を呼びながら身体を揺するが、彼女の瞳は空虚を見つめ、もうスィンを捉えることはない。されるがままに揺れる身体には、彼女の意思が宿っていない。  ファティマはもう、ここにいない。  その現実を突きつけられ、スィンは幼い子どものように、ぼろぼろと涙をこぼした。  ファティマの胸の内で語られた今際の言葉は、彼女の願い虚しくスィンに届くはずもない。スィンとファティマの気持ちは、急速に、悲しいほどにすれ違っていく。もう二度と、擦り合わせることも叶わぬまま。 「ファティマ……俺を見てくれ、頼む。声を、聞かせてくれ。ファティ……頼むから……」  欷泣するスィンの胸中に溢れかえっていくのは、何故助けられるだなんて驕りを抱いてしまったのかという後悔。そして守れなかった自身と、このような仕打ちをした周りに対する激しい憎しみ。  ファティマを自由に、幸せにしたかっただけなのに。辿り着いたのは、様はない、このような結末か。  ニュクスを出なければ良かったのか。  レイヌへ連れ出すべきではなかったのか。  いや、そもそも、神殿から出なければ。  いっそ二人が、出会わなければ──  声にすらならない哀哭が、スィンの身の内を駆け抜けていった。  ゆっくりと流れゆく雲が視界に広がり、ナンナルはぼんやりと雲を目で追いかけていた。やがて意識がはっきりしてくるにつれ、目覚める直前の出来事が思い出されてきて、急いで起き上がる。  産まれて初めての衝撃に、気を失っていたようだ。自らの身体を確かめるように触り、突き刺さっている矢をぞんざいに抜いて放り捨てる。  そしてようやくあたりを見回して──ナンナルは目を剥いた。  気を失っているうちに二百年ほど経ったのかと疑ってしまうほど、神殿は無惨に崩壊し、町は天災に遭った如く壊滅している。数を減らしたヘスペリデ兵達は酷く怯えた様子で、かたやルカは地に膝をつき一心に何かを見つめていた。熱心な視線の先を追うと、自分とよく似た赤髪の女性、そしてそこから少し離れた場所に横たわるファティマを抱き項垂れているスィンがいる。  ナンナルは覚束ない足取りで、ふらふらと立ち上がった。酷く惑いながらも、まず向かったのは──ファティマとスィンの所だ。  二人を見下ろし、ナンナルは息を呑む。  瞬きすらしないファティマの瞳、赤から黒へ変色しつつある衣服が、ナンナルに残酷な事実を伝えてくる。 「……ファティマ、死んじゃったの?」  スィンは何も答えない。  ただファティマを抱き締めたままでいる。  膝をつき、身体を乗り出してより近くでファティマを覗き込んだナンナルの表情が、くしゃりとひずむ。生気の失せた薄青の瞳を労るように、おもむろに手を翳し、瞼をそっと、下ろした。 「知ってたことだけど、やっぱり皆……人間は……常に死と一緒にいるんだね……」  なおも応えずに項垂れていたスィンの虚ろな瞳が、はたとナンナルの足元を捉えた。ナンナルが座り込む石畳の隙間から背を伸ばしていた草が、ゆくりなく、まるで火に炙られたかの如く、枯れ、朽ちていく。  スィンは僅かに目を見張り、視線を持ち上げ、ナンナルを見た。  ナンナルの黄金の瞳は、を宿している。  スィンがナンナルへ呼びかけようとしたとき──それを遮る声があった。 「ずっと見ていた、その娘を」  スィンとナンナルの視線が、声のほうへ移ろう。  声の主であるアーシェは美しい(かんばせ)を持ち上げ、スィン達を、いや、ファティマを見つめている。その瞳は憔悴しきっていたが怒りはなく、至極落ち着いていた。 「可哀想な娘。あたしの欠片を持って産まれたばかりに、ルカに執着されて、こんな風に死すなんて」  ぐ、とスィンは奥歯を噛み締める。ファティマを抱き締める手に自然と力がこもった。  全ては、関係のないファティマをここまで巻き込んだお前の、お前達神々のせいだろう。  そう叫換して剣を振り翳し、関わった者全員の首を刎ねてしまいたい衝動に駆られる。しかし既に生きる気力すら失いかけているスィンに、それを行する力は残っていなかった。  憎悪に塗れた瞳で睨むスィンに気付いていないのか、それとも瑣末事なのか、アーシェは淡々と言葉を続ける。 「同時に、稀有な娘。死の淵でさえ、あたしを……他者を思いやれるとは」  あくまで冷然と話すアーシェであったが、なおもファティマを見つめる瞳が、話すうち微かに憐れみに揺らぐ。 「人間らしく悩み、もがいて、繊細で、信心深く、心優しい。ああ……だめ。その娘と一緒に島を往くうち、無意識のうち愛着を持ってしまっていた。その娘は思い出させてくるの。人間を可愛いがり、慈しみ、愛していた頃の気持ちを」  話すにつれ、段々と感情が滲みゆく声音。  疲れ切った表情のなかに、ありし日の微笑みが垣間見える。  その娘に、あたしから、死花(しにばな)の手向けを。  そう呟いたアーシェが改めて両手を地に置くと、大地がぽつぽつと淡い光を放ち始めた。点在するそれは丸みを帯びた光の結晶となってゆっくりと大地から出で、天へと昇り、順に空に溶けていく。  まるで雨がゆっくりと逆さに降っているかのようにも見える、神秘的で、幻想的な光景。皆一様に言葉を失くし、スィン以外は天を仰いでいる。まさかその美しい光が、この地に散らばった呪いの源、アーシェの憎しみの欠片だとは、思いもせずに。  かくて一人の娘の死を時宜とし、女神は神話時代から続いた人と呪いの連関を──自らの手で、解いた。
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