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やがて最後の光が昇りきり、空へ消えた。
天を仰ぎ脱力するアーシェの疲れ切った瞳には、諦念が滲む。
堕ちきることは出来なかった。けれど元にも戻れない。自分もファティマの内にいた呪いの一部なのだ。このままの状態で在り続けたら一体どうなるのか、アーシェ自身にすら分からなかった。
朦朧としている様子のアーシェへ、近付く影がある。おもむろに近付いていくのは、ルカだ。ルカの胸中を占めていたのは、結局最後にはアーシェは自分の手中へおさまる、という確信だった。アーシェがどれだけ抗おうと、誰がどんな風に立ち入ってこようとも、広大に触れ合う大地と海のように離れられる訳がない。半ばそう妄信して、なんとか重い足を踏み出していく。
しかし──ルカよりも先に、アーシェの元へ辿り着いた者がいた。
「……ナンナル」
最後に見たときよりも随分と大きくなった我が子を、アーシェは見上げる。傍らに立ち彼女を見下ろすナンナルの表情は寂しげである。深沈とした夜空に浮かぶ月の如き光を纏ったナンナルの瞳を見つめているうち、アーシェの目は見開かれていった。
「ああ……あなたの、権能は……」
そう呟いたアーシェの目の前へ、ナンナルがしゃがみ込んだ。
己と瓜二つな顔立ちの中にも微かに愛する夫の面影を見留め、アーシェの眦が赤く染まる。泣き出しそうな表情で衝動的に我が子へ手を伸ばしたが、自らの黒ずんだ指先が目に入ると躊躇いがちに手を戻した。
それに気付いたナンナルから手を伸ばし、しっかりとアーシェの片手を握る。ナンナルにそうされたことで決心がついたのか、アーシェはもう片方の手でそろりとナンナルの髪を撫でる。幼子にするみたいに、優しく、愛しげに。さりとて表情は悲しそうな、けれどどこか釈然とした表情である。
「あなたは今まで人間を愛し……寄り添いたいと願ってきたのね」
あなたに似たんだと思う、実際そう言われてきた、とナンナルが言うと、アーシェは何とも言い難い表情で薄らと笑った。
「神に死はない。だから、どこまで通用するかは分からないけど……」
ナンナルが伏せ目がちに、呟く。
我が子が何をしようとしているか感じ取ったアーシェは、至極安堵した面持ちで彼を見つめる。握る手に、互いの力がこもった。
以前のアーシェに戻ることは、出来ない。
地表を破壊することは出来ても、豊穣を興し地の浄化をすることはもう出来ない。しかし人を呪う存在に徹しきることも──アーシェには出来なかった。
冒涜を受けたにも関わらず消滅しなかったばかりか、人を呪った果てにこんな異様な存在になってしまったのだ。このような状態ではシルヴァの元へ帰ることもままならない。周りにどんな影響を及ぼすのか全く分からないからだ。そして、ルカはアーシェに執着し続けるだろう。また、逃げ続ける日々か。
今までの苦しみに次いで、この状態がひたすら続くのかと思うと、アーシェはまだ途方もない暗闇の中にいるようだった。
不死である神々だからこそ『終わらない』という苦悩が分かる。
だからナンナルは、アーシェの手を握った。
「シルヴァと過ごした時間が一番に幸せだった。そしてあなたを産めたことが一番の誇り。あたしが今この瞬間も愛しているのは、あなたとシルヴァだけ。……彼にも、そう伝えて欲しい」
手に力を込め、切実な声音でアーシェが言う。
深く頷いたナンナルの瞳が、星屑を集めたが如く輝き始めた。
すると、アーシェの身体はたちまち崩れ、ナンナルの胸へ倒れ込む。遥か昔、その胸に抱いた子に身体を預け、アーシェは眠るように瞳を閉じた。
穏やかな表情を浮かべていたアーシェの全身が、次第に淡い光を纏い始める。爪先、指先、毛先までもが光を纏い、やがて蜃気楼のように形が揺らぎ──光が消えたときには、きらきらと輝く残滓がその場を舞うのみで、そこにアーシェの姿はなかった。
「何をした!?」
凄まじい怒号が広場に放たれる。
足を引き摺りながらもナンナルの元へ辿り着いたルカは、彼の肩を乱暴に掴み振り向かせ、胸倉を引き寄せる。ナンナルと視線を交わらせたルカは数瞬驚く表情を見せ、やがて忌まわしそうに眉を顰めた。
「まさか、お前の権能は、死か」
死を知ることがない、関わりがなく意識することもない、理解出来ないはずの神が、まさか死を司るなんて。
ルカは自嘲気味に笑う。
神の御子の権能は後天的なものだ。結局、ここまでしても天運はアーシェに味方したのか。アーシェには最期まで拒絶され、そのうえ自らの結末は、彼女の忘れ形見であり憎きシルヴァの子どもでもあるナンナルの権能により……消される。
母親を奪った男を、父親を苦しませた男を、ナンナルは憎んでいるはずだ。必ず此処で全ての因果を終わらせようとする。こんな傷ついた身体では逃げ切れまい。海神の力を振るうにしても内地でルカが出来ることはかなり限られる。
力なく、ルカは地に膝をついた。しかしその表情に浮かぶのは──アーシェと同じく、安堵であった。
アーシェのいない地で在り続けるあの悪夢を思えば、終わりがあるのは一種の救いだ。加え、いくらアーシェを愛してもアーシェから愛を返して貰えないことに、本心では酷く疲れていたのかもしれなかった。
ルカは抵抗もせず瞳を伏せ、ナンナルが権能を行使するときを待つ。けれど、降り注いだ声がルカの身を切りつけた。
「何を終われる気になってるの?」
ナンナルは既に立ち上がっている。ルカを見下ろす瞳からは光が失われていた。アーシェと同じ顔が、無感情な、けれどその裏に慈悲も哀れみもない感情を覗かせ、ルカを見つめる。
今の今になって、ルカはハッとした。アーシェを囲い閉じ込めていたときも、知らぬ間に彼女は、こんな表情で自分を、見つめるようになっていた──と。
冷えきった声音が、ルカの鼓膜を撫でていく。
「あんたは、このままずっと在り続けるんだよ。今度こそアーシェがいなくなった大地で」
神殿前広場まで辿り着いたラーリャは、唖然とする他なかった。
ヘスペリデとの国境付近で待機していたエレボス兵達は神殿のほうから鳴り響く轟音を耳にし、ラーリャの指示のもと三分の一の兵が神殿へと向かった。
到着したエレボス兵によりヘスペリデ兵、ルカもといセイレンは拘束。エレボス兵達は迅速に対応しつつも、この惨事に言葉少なだった。
その一方で、スィン達の元へ向かった兵士達は何故か彼らを遠巻きに見つめ近付かずにいる。その場へ合流したラーリャは、理由を理解した。
スィンの腕の中で、動かなくなったファティマ。
彼女を抱いたまま、張り詰めた糸が今にも切れそうな状態のスィンに、誰も迂闊に近付けずにいるのだ。
「悪い冗談だろ……」
ラーリャは茫然と呟く。スィンへかける言葉が見つからず、ただ三人の傍らに立ち尽くす。
ナンナルも、スィンへとかける言葉を持ち合わせてはいなかった。愛する者を失った苦しみは理解しているつもりだ。どんな言葉をかけられたとて意味はなく、どんな言葉をかけたとて正解などないことも。
ファティマを抱き締めたまま動かずにいたスィンだったが、不意に、片手を持ち上げた。傍らの地を探るように手を這わせ、やがて放り出されていた剣に、指先が辿り着く。
スィンの考えを感じ取ったラーリャが、急いで身を乗り出す。けれどラーリャより先に、ナンナルがスィンの手を弾くほうが早かった。まるで力が入ってなかったらしいスィンの手から握りかけた剣が離れ、勢いよく遠くへと転がっていく。命を断つ術が遠のき、スィンの虚ろな瞳は更に暗澹に沈んだ。
「……殺してくれ」
もうこの場にいる誰も、この男を助けられない。
ラーリャは、そう思った。スィンがファティマを追いかけていくことを誰も止められない。スィンを救えるとすれば……それは彼の腕の中で瞳を閉じ息を止めた彼女だけ。何たる、皮肉だろう。
「ナンナル、死を司る神なんだろう。なら今すぐ俺を殺してくれ。ラーリャ、お前でも良い。その腰の剣で、今すぐ……早く!!」
捲し立てる声に、ふたりともが沈黙で応える。
ナンナルにも残される苦しみは分かる。だからこそルカにあの罰を与えたのだ。
ファティマの分も生きろなどと言うのはあまりに無責任で、だからといって死を与えるにはあまりに忍びない。
「スィン……」
戸惑うナンナルの呼び声が、虚しく響く。
呪いが消えた地は、スィンの気持ちを嘲笑うかの如く空気が澄み渡り、憎々しいほど晴れ渡っている。
そんななか、スィンは思い返していた。幼い頃、奴隷として過ごした屋敷を飛び出し、渓谷へ落ち、あの通路を歩いた日のことを。
絶望の中、ひたすら進んだ。あの日と違い暗路に出口は、ない。もう二度と、あの先の扉を開けて、その向こうにいるファティマに出会うことは──ない。
「ファティマ、俺は……どうしたらいい?」
頬を伝う涙すら煩わしい。いっそのこと自分の命ごと枯れてしまえばいい。
縋るようにスィンはファティマの額に頬を寄せる。彼を慰めているかのように……まだ、温かかった。
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