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エピローグ
鐘の音が聞こえる。
白んだ朝は特にしんと静謐に包まれているこの森で、微かに聞こえる鐘の音にスィンは耳を澄ました。遥か遠い鐘の音、けれど確かにその音感じながら、仕留めた兎を入れた麻袋を背負う。足音を吸い込んでいく新雪を踏みしめ、深い森の中を進んでいく。
暫く歩いた先に、ひっそりと佇む一軒の家屋。煙突からは白い煙が絶え間なく天へと昇る。家の前には番犬の如く伏せっている、白銀の毛並みの、一匹の狼。スィンが近付くと狼は立ち上がり、たっぷりと時間をかけて尾を揺らした。スィンはしゃがみ込み、足元に近付けてきた顔を両の手で撫ぜてやる。
「お前の主人は、今何処にいる?」
スィンの言葉を理解しているのか否か、狼は家の裏のほうへと駆け出していった。スィンはゆっくりとした足取りでそれを追う。
裏手を覗くと、降り注ぐ日の光に照らされきらきらと瞬く雪の中、一人の女性が切り株に腰掛けている。
赤みがかった金髪に……薄青の瞳。
木の実を拾う手を止め、彼女も遠くの鐘に耳を澄ましているようだった。足元に擦り寄ってきた狼に気付き、伏せがちだった視線が持ち上がる。
その瞳が、榛色の瞳をとらえた。
「──ただいま、ファティマ」
スィンの穏やかな声音に答えるように、寒さで少し赤らんだ頬を緩め、ファティマは、スィンへ微笑む。
「おかえりなさい」
この何の変哲もない光景を見るたび、スィンは未だに息が詰まる思いがする。彼女をすぐにでも抱き締めて、この幸福が嘘ではないと、何度でも確かめたくなるのだ。
ファティマの亡骸を抱いたまま涙を流し、生きる道標を見失ったスィンを見、ナンナルは懊悩の末、荒唐無稽とも思える提案をした。
それはナンナルの心臓をファティマへ譲る、というものだ。
ナンナルは外的要因から命を落とすことはない。傷はたちどころに塞がる。そして──かつて人間の妻との間に産まれた、血を分けた子もそうだった。不死ではないがかなりの長寿で、傷の治りも人の何倍も早く、我が子を見てこの性質は人と交じり合えるのか、とナンナルは思ったのだ。
もしかしたら自分の血肉にはそういった力があるのかもしれない。ナンナルが何とはなしに、ただ漠然と考えていたことだった。
ファティマが死したのは病でも寿命でもなく、傷付いた箇所以外身体に支障はない。だからこそ源さえあれば、傷さえ塞がれば、可能性はあるのではないか。そして自分の身体にはその力があるのでないか、と。
ラーリャによって人払いされた広場にて、ファティマを抱いたスィンとナンナルが向かい合った。上手くいくかは全く分からない、それでも良いかと問うナンナルへ、スィンは力なく答える。
こんな残酷な最期ではなく、温かい寝台の中で穏やかにと願うのは、愚かなことなのか?
もう一度ファティマと話したい、会いたいと縋るのは、自分が弱いからなのか?
スィンの弱々しい言葉に、ナンナルはおもむろに首を横に振り、こう答えた。
当然のことだ、と。
初めの一年は──高熱、左胸や身体の節々の痛み、嘔吐が繰り返されたが、スィンが献身的に支え、ファティマの体調は次第に安定していった。
この事実を知っているのは外国の人物ではラーリャ、そしてアステルとエナフィのみである。神の心臓を賜り、死を覆したなどと露見すれば、広まった叙事詩と重ねファティマはたちまち奉り上げられるだろう。それは彼女の望むところではない。ゆえにファティマ達はケール村の力を借り、ニュクスの片隅で静かに暮らしている。
かといってニュクスへこもりがちになっているという訳ではなく、エレボスの南の地域へ──外套は手離せないが──出掛けたりもするし、特にレイヌへはよく足を運ぶ。
ただ、ファトマへは行けていない。あそこには元アーシェ共和国民が多く住み、ファティマをよく見知る人々が多すぎるからだ。行けずに不便がある訳ではないが、やはりノエのことがファティマは心掛かりだった。
ファティマの体調が安定した頃、ラーリャが「ノエと会う場をつくろうか」と提案してくれたことがある。しかし、ノエにとって過去の存在となったはずの自分が身勝手にも会いたいと願って良いものか、彼女に要らぬ混乱を与えるのではと、躊躇いがあった。加え、ラーリャがイサークにそれとなく話を聞いてくれたところ、ノエはファティマの話を一切しないと言っていたそうだ。
けれど……毎日欠かさずあの鐘を鳴らしている、とも。
その意味は察するにあまりある、口にしないからといってその者の中で過去になったとは限らない、とイサークは溢していたらしい。
「ノエが無事出産を終えたら、どうだろう」
数年越し、ラーリャの二度目の提案に、ファティマは頷いた。少し怖さはあるが──またあの子をこの手に抱き締められるかもしれない喜びが、勝っていた。
暖炉に置いた鍋で煮込んでいたスープをよそう。燕麦に少し小麦を混ぜて作った黒パンを添え、朝の食卓が完成したところで着替えを済ましたスィンへ声をかける。
暖炉の前に二人して腰をおろし、談笑しながら朝食を口にするこの時間は、幾年が過ぎてもえも言われぬ幸せを孕んでいた。
生活の上ではスィンが主に狩猟や薪割りなどを担ってくれている。彼ばかりに重労働をさせるのは、とファティマも共に狩りに出向いたことがあったが……残念ながら才能はからきしだった。解体や血抜きで卒倒しそうになり全く役に立てず、唯一の功績は群れからはぐれ怪我をしていた子狼を見つけ助けたことか。その子は今ではすっかりこの家の番狼だ。
家事は得意ではなかったけれど、歳を重ねれば料理もこなれた。火が通りきっていない野菜のスープをスィンに食べさせてしまったのが、今や懐かしい。
「この前久しぶりにラーリャと会ったとき、レイヌは反王党派と修好関係にあると聞いた」
食事をしながら、スィンがぽつりと話す。
自国の者を殺されて以来、レイヌはヘスペリデ、ひいては王家を認めない姿勢を貫いていた。そこに目を付けたのが独立を望む南の反王党派だ。レイヌは反王党派と外交を結び、反王党派は見返りとしてアステルの要求通りヘスペリデの造船技術を提供した。海神と縁深く、漁業を重視していたヘスペリデの造船技術にはやはり目を見張るものがあった。
「太陽の位置が分かる鉱石、覚えているか?」
ちぎった黒パンをスープに浸して口にし、ファティマはこっくりと頷く。
初めてニュクスへ行く際重宝していた、現在でいうファトマでよく採れる鉱石。ジャウハラから鉱石がなくともニュクスで方角を知る方法を教えて貰った今は、殆ど使用することがなくなってしまったが。確かレイヌはその鉱石を利用し航海時間が飛躍的に延びたと言っていた。
続くスィンの話では、安定航行が望める船と鉱石により、レイヌは半月の長期航海を果たし、そして航海の最中──島を発見したというのだ。
この島の半分にも満たない小島らしいが、環境はレイヌとよく似ており沃野だという。半月後、再び出航し島の調査を更に詳細に行う予定だとか。
この十年で星もこの雪の地も調べ尽くしたファティマの瞳が、新たなる好奇心に輝く。その様子を見ていたスィンは、瞳を細め薄らと笑った。
「ラーリャを通して訊いて貰ったんだが……アステルは二人くらい船員が増えても差し支えない、と言っていたそうだ」
その言葉に、ファティマは食事をする手を完全に止め、目を見開く。堪らずといった顔で「スィン!」と声を上げ、スィンへ抱きついた。勢いよく抱きついたにも関わらず、スィンは全く体勢を崩すことなくファティマをしっかと受け止める。
ぎゅっと存在を確かめるように抱き締め返してから少し身体を離し、ファティマの頬を片手で包む。ぴっとりと手に吸い付く頬が、とけていくように綻んだ。嬉しげにするファティマの額に、スィンの唇が至極愛しげに触れる。
「以前、鳥の話をしてくれただろう」
エレボスにいた頃、珍鳥を見たことがある、という話をした。
地元の者に聞けば決まった時期にしか姿を見せない鳥だと言っていた。ファトマでは見たことがなく、このニュクスでも見かけない。エナフィやアステルに尋ねてみたこともあるが、レイヌでも見たことがないという。残るはヘスペリデだが……初めて鳥を見たときから、ファティマは予感がしていたのだ。あの鳥は、ここではない別の地と行き来しているのではないか、と。
他愛ない会話の中での話だったのに、覚えていて、まさかこんな贈り物をしてくれるなんて。
ファティマの胸は未知への好奇心と、それ以上にスィンの心遣いに締め付けられた。
神殿の外どころか、島の外へ足を伸ばそうとしている。
『外へ出てみたい。海を見に行ったり、雪を見に行きたい』
そう嘆いていたあの頃の少女が今のファティマを見たら、一体何を思うだろう。
「スィン……本当に、ありがとう」
感謝の意を込めて、ファティマがスィンの唇へ触れるだけの口づけを返す。スィンの目元を、十年経っても変わらぬ美しいままの白皙の指先が、そっと慈しむように撫ぜた。
榛色の瞳が眩しいものを見るように眇められ、じっとファティマを瞳におさめる。
この瞳に見つめられると、ファティマはたちまち、身体の芯がぎゅっとなる。何年経っても、それは変わらない。言葉以上に、胸の奥深くの気持ちを伝えられている気がするからだ。
どちらからともなくもう一度唇を重ね、ファティマは自然とスィンの胸へなだれかかり、この世で一番安心する場所へと、身を預けた。
この十年で──ファティマは気付いたことがある。
自分はおそらく、老いていない。
時間の流れが、スィンやノエ達とは違う。
けれど、どう在ろうと、自分は変わらず自分だ。その気持ちがファティマの中で揺らぐことは、きっともうない。スィンと共に生きて、時が来たらこの心臓はナンナルへ返す。そう決めていた。
──だから今は、この与えられた奇跡のような時間を、スィンと二人で過ごしていきたい。
二人の指先がゆっくりと絡まり合う。
二度離れぬよう固く結んで、二人は暖炉の前で長く、まるで一つであるかのように、寄り添ったままでいた。
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