⒉アーシェの妖精

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 水飲み場で、はぁ、とファティマは溜息をついた。徐に水を口に含み、脱力する。  やにわに中庭へ目をやると、鬱蒼と茂るオリーブの木の下、無造作に置かれていた木椅子へ誰かが腰かけている。  目を凝らさなければそのまま暗闇に溶け込んでゆきそうな黒髪、ゆったりとした一枚布の寝巻きに身を包んだレフである。  ファティマはぼんやりと、その姿を見つめた。  こうして改めて見ると、まるで神話を縁どった一枚の絵画。本当に秀麗な顔立ちをしているし、体躯はまるで神殿に飾られる石像の神々のようだ。  そして榛色の瞳は鋭い眼差しではあるが、ファティマを見つめるとき、それは不意に優しくなった。  勘違いだと己に言い聞かせてきたけれど、この視察の間にもその眼差しをファティマは時折感じ取っていた。  奴隷を解放し国を救った英雄でもあり、多くの民から慕われている。  アーシェを侵略したのも、私利私欲のためではない、何かのっぴきならない事情があるのでは……  ──本当は気になる、彼の心の内が、本心が……。  掠めた考えを振り払う如く(かぶり)を振った。……教えてくれるはずもない、そこまで心を通わせられるとは思わないし憚られる。  気付かれる前に部屋に戻ろうとしたが、はたとレフが手に持っている本が目に留まった。見覚えのある背表紙に、ファティマは目をしばたたく。  この世界の神話に関する本だ。  しかも主流のものではない。神殿にいたとき、ファティマ以外では神官長ぐらいしか読んだ者がなく、書庫の隅で忘れ去られていた本。  信心深いどころか神なんて信じていないだろうと勝手に思っていた男が、意外すぎる本を手に持っている。 「……その本、読んだことがあります」  気付けば近付き、話しかけていた。  話しかけた後に、あっとファティマは口元を手で押さえたが、口から()でた言葉は消えない。ファティマの気配に気付いていたのだろう、レフは驚いた様子もなくファティマへ視線を向ける。ファティマはその視線を受け、ぎこちなくも微笑んでみせた。 「……その神話、好きなんです。二柱がとても仲睦まじげで。一般的には女神アーシェは海神ルカと夫婦だと言われているけれど」  その神話では女神アーシェは度重なる海神ルカの求婚に困り果てており、氷神シルヴァに助けを求めた。シルヴァはアーシェを気の毒に思って匿い、彼女を隠すために雪を降らせ、探しに来れぬよう凍土にした……それが現在の雪の国ニュクスであるという。  雪のもと共に過ごすうちにアーシェとシルヴァは恋に落ち夫婦となった。その子孫が現在もニュクスに住む、という神話である。  実際ニュクスは常に雪で覆われており、そこにニュクス人が住んでいるという伝承があるが、容易に踏み込めない上にニュクス人が隣国へやってきた話もなく、その全容は謎に包まれていた。  雪とはどんなものか、そこに暮らす人々はどんな風なのか、子どもの頃はよく想像を膨らませたものだ。 「あまり出回っている本ではないですよね。どちらでその本を?」 「……昔、古本市で」  端的に言ってレフは目を伏せる。  不意に感じる優しさとは裏腹に、連れ去られてからレフは必要以上にファティマと話そうとしないし、近づくこともない。  今も会話しようという素振りすら見せないレフに、ファティマはなんだか悶々とした気持ちになる。  ──ああ、私、少し苛立っているんだわ。  女神の片鱗になってから、極力自身の感情、特に憤懣といった感情を抑えてきたので、自身の苛立ちに気付き、ファティマは些か驚いた。しかし気付いてしまえば、それは燎原の火の如く容易く燃え上がる。  あんな眼差しを寄越しておいて、このまま何も語らずいるつもりなのか。  他の誰でもない、自分にこそ彼の胸の内を知る権利があるはずだ。  ファティマははったと睨んでレフの元へ近づいていき、レフの視線を追いかけるように目の前で膝を折った。  傍から見ればまるでレフへ服従を誓うような光景だが、地に膝をつくその仕草さえ洗練されていて、下から見据える薄青の瞳は、苛立ちを内にひた隠して至極静謐にレフの瞳を捕らえる。  レフはファティマをただの人間の女だと言うが、女神の片鱗として過ごしてきた彼女はやはり一般的な女性とは一線を画している。  高潔で美しく、高揚な微笑みを携える彼女を前に、誰もが自分の本心を見透かされた気持ちになり、吐露し、懺悔や祈りを捧げてきたのだ。  誰も実際に女神アーシェを見たことなどない、それでも彼女こそがと皆が思う。  今もファティマは意識的にそうした訳ではなかったが、身に染み付いた所作がそれを彷彿とさせた。そして彼の本心を知りたいという気持ちから、片鱗として培ったその御業を無意識のうちに行使していた。  レフは瞠目して、思わず息を呑む。 「情報として理解はしていましたが、実際にエレボスの町をまわり、あなたは本当に偉大なことをされたのだなと感じました」 「……俺は自分の為にやっただけだが」 「例えそうだとしても、それでどれだけの民が救われたか知れません。……ですが、アーシェを攻めたのは? それも自分の為なのですか?」 「ああ、そうだ。自分の目的の為に」 「奴隷を解放しアーシェを侵略することに一貫性を感じられませんが、どういった目的なのでしょう」 「…………」 「教えてくださいませんか? あなたの気持ちを」  教えて欲しい。全ての理由を。  その理由を知れば、あの眼差しの訳も知れるのではないか。あの優しさに、何か確信が持てるのではないか。  再びあの瞳がファティマを捉えた。  じっと見つめられたかと思えば、レフの手がファティマの頬に躊躇いがちに触れた。  まただ。またあの、至極優しい、細工に触れるかのような手つき。  ──誤魔化さないで、ちゃんと答えてと、言うのよ……。  そう思うのにファティマは声が出せなかった。  次に言葉を紡げば、この手が離れていく気がしたから。  出来ることなら、ずっと触れていて欲しい。  心のどこかでそう思っている自分に、ファティマは震えた。  何故そんな風に思うのか?  何故憎めない?  自分の祖国を無慈悲にも侵略した相手なのに!  ファティマが狼狽えている間に──レフの手は離れていった。  彼女の頬に触れた手を、何かに堪えるよう握り締めて、レフの表情が苦しげに歪んだ。けれどそれは本当に一瞬で、ファティマから大きく目を逸らし、立ち上がる。 「……部屋に戻れ」  低い声音でそう言い捨てて、レフは足早に去っていく。  ファティマはその背を見つめ、眉尻を下げた。触れられた頬を、自分の手で意味もなく撫ぜてみる。  このもどかしい感情は行き場もなく、胸の内で虚しくとぐろを巻いていた。
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