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「ファティマ様!」
その日の午後、ファティマの部屋の前に立つ影があった。
懐かしい呼び声にハッとファティマが扉のほうへ目をやると、目に涙を湛え、震える手を誤魔化すように己の服を握り締めながら、そこに立っていたのはノエである。
ファティマは勢いよく立ち上がった。
「ノエ?」と漏らした声は震えていた。それを聞いたノエが、わっとファティマのほうへ駆け寄ってその腰に抱きつく。ファティマも思わず眦が熱くなるも、何とか堪え、ノエを抱き締め頭を優しく撫でた。
「ノエ……無事で何よりだわ」
「ファティマ様も……酷いことはされていませんか? お身体は?」
「私は大丈夫。ノエ、顔をよく見せて」
しがみつくノエを少しだけ離し、両手で包みこみ涙に濡れる頬を拭ってやった。
「驚いた……何故ここに?」
「……ラーリャさんに頼んだんです。ファティマ様に会いたいって……」
以前アーシェの様子を見に来ていたラーリャへ、自らをエレボスへ連れて行って欲しいと訴えたらしい。ファティマの身の回りの世話を今まで通り自分にさせて欲しいと。
ノエの必死の訴えに絆されたラーリャはレフへ相談し、先日正式に許可がおりたらしかった。
ノエは孤児だ。両親を病で亡くし親戚もなく路頭に迷いそうになっていたところを、ファティマが引き取って侍女となった。
ノエはファティマに対して、主として想うと同時に、姉のように、または母のように思う感情もあり、傍にいたいという気持ちが強かった。
ファティマも、家族の記憶などとうに薄れ、家族がどういったものかなんて分からなかったが、妹がいたらこういう気持ちなのだろうと、よくノエを見て思っていた。
ひとしきり再会を喜びあった後、ノエとファティマは机を挟み向かい合わせで椅子へ腰かける。
ノエはもちろん主人と同じ席に座るわけにはいかないと言ったが、ファティマが無理を言って座らせた。長旅で疲れているだろうし、積もる話もあったからだ。
そしてファティマは今一番気がかりであったことをノエへ尋ねた。
「アーシェは今どうなっているの?」
「……それが……ほとんど変わりありません」
ノエは伏せ目がちにこぼす。
「早々に自治権を与えられ、エレボスの……奴隷軍の手を離れ、タマル神官長のもと皆今まで通りの生活を送っています。変わったことといえば、ファティマ様がいなくなったこと、今後また女神の片鱗が現れても女神の代理はさせるなという命があったくらいでしょうか」
「そう……」
「あ、ヘスペリデ兵の代わりにエレボス兵が警備……見張りも兼ねてでしょうが、一部国に留まってはいます」
「資源を奪ったりは?」
「ありません」
被害は最小限に抑えられていた。
あの夜アーシェ国民で怪我を負った者はおらず、警備にあたっていた約五十人ほどのヘスペリデ兵も軽傷者ばかりで、捕らえられた後、皆ヘスペリデとの国境あたりで解放されたようだとノエは言う。
ファティマは驚きよりもやはり、という気持ちが強かった。予感が確信に変わっただけだ。奴隷軍の、レフの真の目的は侵略ではないのだ。
「……本当に、一体何のために」
「分かりません……ただ、この侵略で大きく変わったことがあるとすれば、女神の片鱗という役目がなくなる、ということではないでしょうか?」
ノエのその言葉に、ファティマはどきりとした。
感じていたレフの優しさ、それはもしかして同情、もしくは……
「……彼は、女神の片鱗も奴隷のようだと思っていたのかしら」
同類相憐れむ、ということか?
もちろん奴隷と比べるとどれほど恵まれているかしれない。彼らほど身体的、精神的に酷く苦しい仕打ちを受ける訳でもない。
しかし、ファティマは不自由だった。
自分の気持ちを殺し、女神を演じてきた。それは見方によっては、女神の奴隷のようだったかもしれない。
ファティマの言葉を、ノエは否定せず静かに聞いていた。そして悲しげに、おずおずと口を開く。
「……無礼を承知で申し上げるなら、私も……ファティマ様に仕えてから何故こんな役目があるのだろうと思っていました。ただ紋様があるというだけで、一人だけ自由を奪われ、神殿に閉じ込められ、一生を終えるなんて……あんまりです」
「だから……解放してくれた?」
それだけの為に……ファティマひとりの為にあんなことを? いや、今後産まれてくるだろう片鱗のことも含めて?
確かに腹に落ちる、けれど、とても信じられない。いくら同情があれど神殿に囚われている女を解放するという単純な話では済まないのだ。隣国との関係、自国への影響、周囲の多くの人間を巻き込んで様々なリスクが伴う。レフにはそんなリスクを侵してまでファティマ、ひいては今後産まれてくる女神の片鱗を解放しなければならない理由はないはずなのに。
──やはり、他に理由があるのでは? きっと、想像もつかないような、別の理由が……。
そう考えたとき──あの榛色の瞳を思い出した。
ファティマは途端に、涙がこぼれそうになった。
別の理由などない。恐らく予想は正しい。それは自分がよく分かっているはずだ。リスクを侵しても、周囲の人間をどれだけ巻き込もうと、彼は自分を解放してくれたのだ。
あの眼差し、不意に感じた優しさが、全ての答えだったのだと。
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