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プロローグ
月の光芒もない黒夜である。
寝台に横たわっていたファティマは遠くで聴こえる微かな喧騒を感じとり瞼を持ち上げた。
祭典もない時期、この牧歌的な小国の夜にそぐわないその騒めきに、傍らのガウンを手に取る。外の様子を確かめに行こうかと燭台へ火を灯したところに、侍女であるノエがノックもなしに部屋へ飛び込んできた。
「ノエ、何かあったの?」
「侵略者です、この国は今、攻撃されています」
「……本当に?」
ファティマが驚くのも無理はなかった。ファティマの暮らす国、アーシェ共和国は中立国だ。これまでの歴史で一切の戦に関わってこなかった上、宗教的にも神聖視され他国から侵略されたことがなかった。
"アーシェは侵略しない"というのが周辺諸国の暗黙の掟でもあったのだ。
だからこそ侍女の言葉に耳を疑ったが、灯火に浮かび上がるまだ稚ないノエの顔は恐怖に歪んでいた。
「警備にあたっていたヘスペリデ兵の一人が怪我を負い、襲撃を受けたと言って神殿へ駆け込んでまいりました」
「攻めてきたのは?」
「分かりません……けれど、早くお逃げになって下さい。必ずあなたは狙われます。だってこの国の象徴、女神の片鱗なんですから」
「……私はここに残ります」
ファティマは胸元のペンダントを握りしめながら、ノエへ鷹揚な微笑みを向ける。
女神の片鱗として選ばれた際に受け継がれる、片鱗が産まれる毎に魔法使いが祝福を吹き込んだ雫型の宝石のペンダント。
ファティマがこのペンダントを握るのは、自分の役目を己に戒めるときだった。十歳のときに、この立場になってから、自分を上手く制御するためのファティマの無意識の癖である。
女神を務めるファティマは一段と美しく高潔で、周りの者はたちまち畏敬してしまう。自然と彼女の言葉に耳を傾け、従いたくなるのだ。
それは常に彼女の傍にいるノエすらも例外ではなかったが、ファティマを思うがゆえ、ノエは己の竦みを振り払った。
「ファティマ様、でも……」
「アーシェ女神の片鱗だと言われている私が国民を置き去りにして一人逃げただなんて、女神の名を貶めるようなこと出来ないわ」
「しかし大した国土もなく軍事力もないこの国を侵略するなんて、狙いはファティマ様かもしれません。捕らえられたらどんな目に合うか」
「……いいのよ。そもそも一生神殿の中で、国と民にこの身を捧げる定めだったのだから、最期まで国と共に在ります。あなたは早く逃げなさい」
「私も残ります、ファティマ様と一緒にいさせて下さい」
「いいえ、逃げるのよ」
「いやです!」
頑なに首を縦に振ろうとしないノエをファティマは抱き寄せながら「困った子ね」と呟いた。ノエは腕の中で身体を震わせて泣いているようであった。
喧騒は最初に気付いた時よりも大きく確かなものになっていて、もうそれほど時間がないと知らせてくる。
まだ頑是無いこのノエを、自分に仕えたからといって道連れにしたくない。ゆっくりと自分から離し、慰撫するように「私を思ってくれるのなら逃げて。早く隠し通路へ……」とファティマが語りかけたとき──部屋の扉が飛んだ。
足蹴にされた木製の扉は砕け、勢いよく床を滑る。
ノエは小さく悲鳴を上げファティマの胸に飛び込み、ファティマは出来るだけノエを庇うよう抱えこんだ。
燭台の火が一際大きく揺れ、影が亡霊の如く蠢く。
現れたのは一人の男だ。
複数人いるかと思っていたが、男の後に続く者はいない。
顔半分を覆い隠す兜により男の口元しか見えないが、目線が交わったことが感覚的に分かった。
長身でとても均整のとれた身体付き、下半身は衣服の上から草摺などの鎧に覆われていたが、上半身は肩当と首鎧のみで裸体が覗く。
燭台の火の元でも分かるほど身体中に古い傷跡が見て取れ、男が歴戦の兵士であると伺わせた。
「あなたがファティマだな」
「……はい」
「俺と来て貰おう。異存はないな」
「……はい」
下手な返答は出来ない。自分の一挙一動に国民の命がかかっているのだ。
けれど腕の中で震えて声も出せずにいるノエだけでも、どうにかここから逃がしてやれないか。
必死で考えを巡らせていたら、息を切らした様子でもう一人、男が部屋へ駆け込んで来た。相手が一人だけならどうにかして逃がしてやれるのではと思っていたファティマは絶望的な気持ちになる。
「何一人で突っ走ってんだレフ! ついて行く身にもなれよ」
「別に、俺は一人で大丈夫だ」
「またそんなこと言って……あーあ、女神さん見つけちまったか。もう後戻り出来ねえな」
「必要ない」
「連れてくのは女神さんだけだな?」
「ああ」
二人が目配せしたのが分かった。
後から来た男がファティマ達に近づいて来て、ノエの腕を取りファティマから引き剥がそうとする。引き上げられたノエがファティマ様と小さく泣き声をあげ、ファティマは胸が潰される思いで嘆願した。
「お願いです、その子はまだ幼いのです。どうか乱暴しないで」
「あなたが大人しく従えば、乱暴はしない。もちろん国民にも」
最初の男が言った。レフと呼ばれていたその男へ、ファティマは服従の意を込めて深く頷く。
この口約束が真か嘘かなど分からないが、ファティマは男が約束を違えることがないよう祈るしかなかった。
担がれて部屋を出ていく泣き顔のノエを断腸の思いで見送る。もう少し早く逃がしてやれていれば、と打ちひしがれていると不意に金属音がして、頭を持ち上げれば男が兜を脱ぐところであった。
兜の中に隠されていた、今宵の黒夜のような髪が宙を舞う。
ゆるく三つ編みされた髪は徐に腰へ落ち、現れた顔は思っていたよりもずっと若い、まるで神殿にある彫刻のように美しい、精悍な顔つきの青年。
睥睨する瞳に燭台の火が闘志のように揺れ、ファティマは息を呑む。
「……あなたがたは……一体何処の国の兵士なのですか?」
「エレボス、と言えば分かりやすいか?」
──エレボス帝国。まさか、あの国は今……。
そう考えていたら突然手首を引かれ、ファティマは足が縺れて男の胸へ倒れ込んでしまった。
意図せず男性の肌に触れてしまい、ファティマはカッと身体が熱くなるのを感じて急いで体勢を整えようとしたが、男の手がそれを許さない。
男の手は無骨で大きく、少し力を入れただけでファティマの細い手首など簡単に折れてしまいそうで、身が震える。
男を見上げることも出来ず「お離しください、逃げはいたしません」と懇願するけれど、その言葉も虚しく男は更にもう片方の手で、何故かファティマの頬を包むように触れた。
どくりと、心臓が大きく脈打つ。
恐怖からではない、無骨な手からは考えられないほど……扉を蹴破り今まさに祖国を侵略しようとしている敵国の兵士とは思えないほど、至極優しげな、気遣うような手つきだったからだ。
頬に触れる男の手へ恐る恐る視線を流し、ファティマはあることに気付く。
……刺青である。
男の手首をまるで枷のように囲う、これはエレボス帝国の"奴隷"の烙印だ。
そう考え及んだときに、男の手は頬からするりと落ち、何故か胸元のペンダントへ。
男はペンダントを手に取り、形を確かめるように触れると、突然乱暴に、勢いよく引きちぎり、床へ放り投げた。
驚きに見開かれたファティマの目に、次の瞬間には男に踏み砕かれ、ただの砂礫と化した女神の証がうつる。
その光景に感じた何とも言い難い侘しさを、男が代弁するように低い声音で言い放つ。
今日、この国は終わる、と。
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