2:ラベリング、ボーリング

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 居間も掃除していかないとな、とアカネは溜め息を吐いた。  ゴミだらけの――特に食品関係のもの――居間は全体的に異臭がする。でも不思議とゴキブリやネズミは見かけない。小蝿もいない。生き物の気配がないのだ。そういった生き物は、もう地球にいないのかもしれない。あるいは人類のように気力を失ったのかもしれない――なんて、アカネは空想した。きっと人類がマトモであれば、生態系の異常の理由も調査したのだろうが。もう二度と、消えた小動物の謎が解き明かされることはない。 (でも、普通の蝿はいるんだよな……)  しかし蝿共はゴミには見向きもしないのだ。人間の死体にだけ集まってくるのだ。……胃袋がざわついたので思考を止め、アカネは窓を見た。居間の大きな窓は、鱗状の水垢が霞をかけていた。窓は開いている。気温は高めだけれど、殺人的なものではない。死ねない程度の温度だった。 (生き物が消えて、人間も消えて……そうしたら、地球はどうなるんだろう……)  アカネのそんな考えは、男の「カレーできたよ」という言葉で打ち止めになった。青年が視線を戻せば、レトルトの米と、そこにかけただけのレトルトカレーが、皿に盛られていた。 「あ。食べる前に」  手を叩いて思い出した仕草をした男は、机の上にゴソゴソと絆創膏を数枚おいた。それをどうするのかというと、アカネの顔の傷に遠慮なくペタペタと貼っていくのである。青年は身動ぎせず、顔の筋肉も動かさず、この狂人の好きなようにさせた。 「アカネの掌と足のケガの分までないんだよね。どっか買いに行かないと」  最後の一枚をアカネの頬に貼り終えて、男は席に座る。アカネは顔の肌に張り付いたテープの心地を感じながら「そんなに酷くないから大丈夫ですよ」と返事をした。実際、掌はちょっとした擦り傷だし、足も見かけは酷いものの、一日が経ってかさぶたがちゃんとできている。  青年は言葉を続けた。 「それに絆創膏よりも、手は掃除するんでゴム手袋とかの方がいいです」 「あ、そう? じゃあそうしよう。……ゴム手袋かぁ」 「探しに行きますか。散歩がてら」  さすがにゴミの中から発掘されたブツを手にはめるのは勘弁願いたい。アカネのそんな思いを隠した言葉に、男は「いいねぇ」と陽気に答えた。 「じゃあごはん食べちゃおうか。いただきます」 「いただきます」  ――口にするのは、ありふれてありきたりなレトルトの味。カレーは中辛だった。  熱いものを食べると汗が滲む。午前中に全身の汗腺という汗腺から汗を出したアカネは、「後でシャワー浴びないとな」と考えてから、「風呂場も掃除しないとな」と溜め息を吐きたい気持ちになった。  この邸宅は大きい。ここの掃除を全てやろうと思えばどれぐらいの時間がかかるんだろう――砂漠の砂粒を数えるような労働の気配に、アカネはゴールまでの距離を想像することをやめた。  アカネが掃除にこだわるのは、「人間として不衛生な場所で過ごしたくない」という本人の気性はもちろんあるが、それ以上に――いつ『進行』していくかも分からない、無気力という『症状』への恐怖と抵抗があった。目の前にいる、整理整頓ができなくなった発症者に対し「自分だけはお前のような狂人ではない」という健気なほど哀れな優勢感があった。後者については無意識的なものである。  食事中に別段会話もない。二人とも、口をお喋りではなく食事に専念させていた。食事が終われば皿を洗う。台所は散らかりすぎて無法地帯であり、食器用洗剤もスポンジもない。水だけは綺麗……に見える。少なくとも濁りや悪臭はない。浄水や発電やらの全自動システムはまだ生きているようだ――それが人類を無為に延命させているとも知らずに。 「……食器用洗剤にスポンジも必要ですねこれ」  濡れた手を拭いてアカネは肩を竦めた。買い物リストがどんどん増えていく。尤も、最早経済というものが息をしていない状況である。金についても、例の金庫に人生が狂いそうなほど積み上げられている。 「バンソーコーと、ゴミ箱と、食べ物と飲み物と、掃除道具と、洗剤とスポンジ?」  玄関へ歩き始めた男が、指折り数える。「そうですね」とアカネは頷き、後を追った。後ろから見る男の尻ポケットには、紙幣が幾つか雑にねじこまれていた。
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