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蝉が鳴いている。
青年が目を覚ましたのは、他人のにおいがするベッドの上だった。お世辞にも清潔感はない。くたびれたタオルケットが一枚、青年の体の上に敷かれていた。
意識がどこかボーッとする。上体を起こし、青年は自分の体を改めた。患者衣。日に焼けていない肌。おびただしい注射痕。素足と掌に、雑多に貼られた絆創膏。ガーゼの向こうに血が滲んでいる……。
部屋の中は暗い。窓はカーテンで遮られていた。擦ったように痛む掌で青年がカーテンを開けば――埃っぽい感触がした――眩しいほどに青い空だ。途端に部屋は明るくなる。ガラスは閉められておらず開きっ放しで、夏の風が吹き込んだ。
そうして明るくなったそこを見渡して、青年はぎょっと顔をしかめた。
いわゆる――ゴミ屋敷。あれやこれやで溢れかえって、整理整頓とは真逆の様相を呈しているではないか。
「なんだよこれ……」
青年が顔をしかめて呟いた。そうすれば、小さく人間のうめき声がした。ベッド脇の床からだった。青年がそちらを見やれば、あのバルコニーの男が――年の頃は中年ほどに見える――わずかな床のスペースで横になっていたのだ。
寝起きの顔で、男が青年の方を見る。すると彼はあくびと伸びを同時にしながら起き上がった。
「起きた? 全然起きないから死んでるのかと思っちゃった」
危機感やら懐疑やらの一切ない声だった。その対応に青年は何とも言えない顔をしながら、問いかけてみる。
「……あの、あなたは」
「僕? 見れば分かるでしょ、どう見ても人間」
悪びれない様子で答える。青年はそういう意味で質問したのではなかったのだが――目の前の男、このゴミ屋敷の主が、自分を害するつもりはないのだろうことは察した。青年は安堵の息を小さくこぼした。
「……手当、あなたが?」
「そうだよ。探すの大変だった、バンソーコー。気を付けなよ、あの花、トゲがあるから。ブーゲンビリア」
「ブーゲンビリア……」
赤い――花。太陽を浴びて熱気に晒され、どこまでも鮮やかな花。
その赤さが……赤色が、赤い色が、脳裏を引っ掻くような不快感がして、青年は固く目をつむる。
(でも、大丈夫だ、ひとまず、ここは……。それにこの人も……おそらく、発症者だ……)
ゆっくりと目を開けて、青年は片付けられていない部屋を一瞥した――青年は知っている。この男をはじめ、人類に降りかかった災厄を。目の前のこの男も、その『犠牲者』であるのだろうことを。部屋が散らかる、すなわち片付けられなくなることが、その症例の典型であることを。
青年は男に視線を戻した。
「すいません、あの……服、貸してもらってもいいですか」
「いいよ。ちょっと待ってて――」
二つ返事で、男は踵を返していた。ゴミを踏み越えて歩いていって、姿が見えなくなってほどなく、戻って来た彼はハーフパンツと半袖シャツを持ってくる。畳まれていた痕跡がないのを見るに、干しっ放しだったものだろう。
清潔さの保証には今は目をつむって、青年は渡された服に着替えた。着替えてから、長袖のものを要請すべきだったと手の内側の注射痕に後悔した。
「お腹空かない?」
そんな彼を近くで観察していた男が、唐突に言う。「はい?」と青年が顔を上げれば、男は言葉を続けた。
「今ちょうど切らしてて。君がお腹空いてるなら、買いに行こうかなって」
「ああ――それはどうも」
「じゃあ一緒に行こうか」
男がニコリと言う。
(一緒か……)
青年は逡巡した。「じゃあ帽子も貸してもらえますか」と言いかけて、この不衛生な場所の帽子を被る、ということに耐えられなくて、結局は「分かりました」と頷いた。
それから男に「こっち」と案内されるまま、青年はゴミを踏み越え歩く――この家は随分と大きいようだ。そして高級感がある。尤も、そこかしこを占有する雑多物のせいで全て台無しだが。そして青年が見るに、この家にいるのはどうやら男一人だけらしい。階段の吹き抜けには豪奢な照明がぶら下がっていた。埃まみれだが。
電気の点いていない家の中は暗い。対照的に窓から見える夏はどこまでも眩しい。光が強いほど影は増す、という言葉を例えているかのように。
そんな中、男が立ち止まる。目の前にはガラクタに囲まれた立派な金庫があった。それは半ば開いていて、男がふたを開くと中には大量の金が押し込んであった。
「すごいでしょ」
その内の数枚を雑につかみ取って、乾いた紙きれをひらひらさせて、男は後ろの青年にどこか得意気に眉を上げる。「そうですね」と青年は呆気に取られていた。男は自身のダボついたハーフパンツのポケットに金をねじ込むと、「行こ」と玄関を目指し歩き始める。
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