1:ハローの赤色

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 鍵もしないで外に出た。屋敷の中は冷房がついていなかったので、外とそんなに気温の差異はない。  蝉が鳴き続ける真夏。黒々としたアスファルトは高温を保っている。あちらこちらに、暑い所でよく育つ植物がその繁殖力を見せつけていた。野生化した南国産まれのそれらは、常夏色の鮮やかな花を咲き誇らせている。  二人は坂道を下りていく。ひとけのない住宅街。二人分のサンダルの足音が響いている。  高度が下がって行けば、やがて町の風景は半ば水に沈んだかのような様相となる。遥かイタリア、ベネチアのようでもある。常夏の温暖と化した地球は水位が上昇していた。その現象の一端だ。 「ケガ、痛くない?」  水位はすねの中頃まである。男は構わずざぶざぶと歩き始めながら、顔を横向け青年へ振り返った。彼はブーゲンビリアのトゲで傷付いた青年の脚を気遣っていた。 「……」  青年は無言だった。ただ、顔色を悪くして、水底の黒いアスファルトを見つめている。水はどこまでも透明で、夏の日差しにキラキラしていた。 「どうしたの」  男が立ち止まって問うた。青年は顔をしかめて、傷付いた掌で口を抑えた。 「視線が……視線が、視線が、視線が、俺を見ている」  震える彼が恐慌しているのは明らかだった。先ほどまで落ち着いていたのに、発作のように怯え始めたのだ。男は首を傾げ、周囲を見渡してから、青年の傍に水を踏んで歩み寄る。 「大丈夫、誰もいないよ。……君は変わってるね、さっき人を元気に殺しておいて……あ、あの死体、処理しないとね」  朗らかに、しかし淡々と男が言う。青年は目を見開いた。 「人を殺した?」 「そうだよ。あれ、覚えてないの? まあ、忘れっぽいのはみんな同じさ」 「――……」  青年は足元を凝視する。澄んだ水面に自らの顔が映っていた。その脳を過ぎるのは、猛烈な色彩の渦。  黙り込んだままの青年の手首を男が握った。青年はビクリと肩を震わせたが、何か言う前には男は歩きだしていて――青年の絆創膏だらけの脚が、生ぬるい水に浸かった。途端に傷がチクリと傷んだ。 「もうすぐスーパーにつくよ。こっち。大丈夫、怖くなんかないさ。あ、水、傷に沁みちゃった? ごめんごめん」  ざぶ。ざぶ。歩みを圧す水は、まるで夢の中を歩いているかのようだった。  青年は眩暈を覚えながら、男に手を引かれるまま、痛い足でどうにか、夢遊病のように歩いていく。  そうして到着したのは、ありふれたスーパーだ。少し高い位置にあるので水没は免れている。  冷房の効いた店内はガラガラだった。それは人間的な意味であり、品物的な意味でもある。レジには老いた女がボーッと、口を開けて立っていた。目は虚ろだ。そしてそれらと相反するように、店内は明るくコミカルなテーマBGMが漫然と流れていた。 「この辺りのご飯もなくなってきたなぁ」  全く危機感のない声だった。男は適当にレトルト食品や缶詰や冷凍食品を買い物カゴに入れて、人のいないレジへと持っていく。そしてポケットの金を適当に置いて、ビニール袋を勝手に失敬して、その場で詰め始める。割り箸も雑につっこむ。  青年はその後ろ姿を眺めていた。彼は嫌悪感を以て、このスーパーの風景を見つめていた。 「……こんなのおかしい」 「みんなそうでしょ、君は違うの?」  ビニール袋を持った男が青年を見る。それから、袋から一つのパッケージを取り出した。それはヘアカラーリング剤だった。赤色に染めるものだった。 「君さ、白髪交じりでおじさんみたいでしょ、若いのに。帰ったら綺麗にしてあげる」 「……白髪?」  青年の視点からは自分の髪は見えない。強いて言うなら長くなった前髪の毛先が至近距離で見えるだけだ。男は「若白髪があるって苦労してたんだね」と悠長に言って、また歩き出しながらこう言った。 「ああ。……髪を染める前に、死体の処理だっけ」  青年は唇を噛んだ。 「こんなの、おかしい……」  スーパーの自動ドアが開く。熱気と共に、蝉の声。「はやくおいでよ」と男が言う。青年は、歩き出す他にできることなど一つもなかった。
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