1:ハローの赤色

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 またあの道を辿る。熱されたアスファルト、水に沈んでいく町並み、南の花と蝉の歌。  青年は水に沁みる脚の痛みで、どうにか現実感を保っていた。  ざぶ。水底のマンホールを踏んだ。下水は溢れていないのだろうかと、ふと青年は物思う。悪臭もなければ水も澄んでいる、ように見えるが。 「今日も暑いね」  青年の少し前を歩く男が振り返らずに言う。歩く飛沫でハーフパンツが濡れることも気にしていない様子だ。青年は顔を上げて――視界の端に、車が停まっているのを見つけた。そして、運転席に死体らしき物体が、シートベルトをしたまま蒸されている姿を見た。瞬きと共に目を逸らす。 「そうか、もう人がほとんどいないから」 「なんか言ったー?」 「いや。独り言です」  振り返った男に独り合点の結論を答え、青年はざぶざぶと歩き続ける。 「……暑いですね」  ワンテンポ遅れて、青年は「今日も暑いね」への返事をした。長らく日を浴びていなかった気がする。青年は眩しすぎる太陽に対し顔を俯けていた。そうすれば、ふやけた絆創膏だらけの足が見える。水は不思議なことにボウフラが湧いていることもない。もしかしたら、生物に適さないほど清潔すぎるのかもしれない……なんて、青年は想像した。  水から出る。坂道を上る。濡れた足に夏の風が心地いい。水のついた足跡は、少し歩いただけで消えていく。 「死体……」  青年が重い口調で呟く。 「本当にあるんですか」 「見れば分かるんじゃないかな」 「……」  また一歩、あの空き地へと近付いていく。青年の顔を汗が伝う。じりじりと、責めるような太陽が首の肌を焼いている。  青年の心臓が嫌な跳ね方をした。  赤い花の空き地。  たくさんの虫の羽の音。  棘だらけの上に、大の字の物体。  そこに群がっている、大量の蝿。  暑さにやられた肉。花に散った血糊。  ――ブーゲンビリアの赤色が、あまりにも鮮やかで。  まるでそこかしこに血肉が飛び散っているかのようだった。 「う――」  青年は口を押さえて後ずさった。  死体だ。頭と顔が割れて咲いた死体。満開の花のよう。 「本当に俺がやったのか」  呆然と呟いた青年に、男は瞬きをひとつする。 「本当に覚えてないんだ。記憶がブツブツなのかな」 「し……死体がある、のに、あなたはどうしてそんな……」 「そんなって、どんな?」  男のその態度に、青年はどうしようもなく自分との乖離を覚えた。狂気を感じた、とも表現できた。  一方で男もまた、手ずからの殺人を覚えておらず、目の前の死体に酷く動揺している青年を不思議だと感じていた。けれど男は嫌悪感なんてちっともないのだ。 「君とはなんだか仲良くなれそうな気がするんだ。親近感とか、直感っていうのかな? こういうのって」 「な、何を……」 「こんなこと初めてかも。凄く眩しく見えたんだ――」  男は目を細めて青年を見つめた。  まだ今日の内の出来事というのが、男には信じがたかった。変わらぬ日々の繰り返しの中――赤い花、赤い血、泣き叫ぶ青年。 「晴天のヘキレキ」  で、あってる? と男は軽く笑った。「ヘキレキって、絶対漢字で書けないよね」と冗談めいて付け加えた。 「いい家に住んでるんだけど、やることなくて退屈だからさ。ドキドキしてるよ。……ねえ、これどうしよっか。とりあえず燃やそっか」  男が顎で死体を示す。青年は呆然としたまま動けないでいた。だから男が全てやった。空き地のブーゲンビリアが及んでいない場所に火かき棒で死体を引きずっていくと、花の棘で死体がより傷ついた。死体についていた大量の蝿がワッと飛んだ。男は表情を何も変えず、ガソリンを死体の体にぶちまけていく。火の点いたマッチを投げるまで、男の行動に躊躇いは一切なかった。  ば、と火が上がる。入道雲の空の下、赤々と火が燃えていく。踊る舌のようにも見える。蝿の卵と人が燃える臭い。 「警察なんか来ないよ。あの人たちが動かないのは前々からだし」  男がそう言っても、青年は返事をできないでいる。臭い火を直視することなんてできなかった。逸らした視線の先に、血のついたレンガ片が転がっていて――途端に、青年は泣き崩れた。 「俺じゃない、俺はやってない、違う、思い出せない、分からない、赤い色しか思い出せない――俺がやったのか? 俺が、やったのか?」  青年は『また』、数多の視線を全身に感じていた。責めるような、奇特なものを嘲笑うような、目、目、目、目、目。だが消え入りそうな理性の片端で、その眼差し達が自らの妄想であることを青年は理解していた。理解してしまえば、自分がおかしいことに向き合わなければならない。普通の人間は強迫妄想に苛まれたりはしない。  眩暈がした――思い出そうとすればするほど、どろどろと溶けるような眩しい赤色の混沌しか思い出せないのだ。  青年は膝をついて頭を抱えて、子供のように怯えて泣いて震えている。 「そんな泣くことないじゃない」  男は青年を見下ろしている。それから、ふと――現在進行形で燃えている死体をチラと見た。  あの死体は白い服を着ていた。白い服、で男は白衣を連想した。実際に死体が着ていたのは白衣ではないが、もしかしたら患者衣を着ていたこの青年は、あの死体を医者と見間違えたのかもしれない。なるほど、と男は合点した。彼は注射や点滴がすこぶる嫌いなので、医者を憎む気持ちがよく分かった。 「きっとビックリしちゃったんだね」  慰めるように男はそう言って、うずくまる青年のぼさぼさの髪を優しく撫でてやった。白髪混じりの黒髪だ。些か伸びてしまっているその髪を掻き分けてやれば、白いうなじが晒される。薄い皮膚の下に、背骨の凹凸が並んでいた。 「背骨だね」  男は感じたことをそのまま意味のない言葉にして、若い骨の凹凸を指先でなぞる。青年は泣いていなければ、くすぐったさに文句の一つも言っただろうか。 「君が女の子じゃなくってよかった。だってセックスしたくて声かけたみたいに見えるでしょ。ほら、うちでごはん食べよ」  そう言われても、青年には分からなかった。この男が奇妙なほど親しくしてくる理由も。『今』が、なぜこのようになってしまったのかも。自分がこれからどうすればいいのかも。
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