1:ハローの赤色

5/6
40人が本棚に入れています
本棚に追加
/49ページ
 食事をしようと男が言って、青年を外見は立派な邸宅に連れ込んだ。  しかしとてもじゃないが、青年は食事ができる精神状態ではなかった。燃えていく死体が頭にこびりついて、ぐるぐると蝿群と共に回って蕩けて、気持ち悪くて仕方がない。あの熱気に浮かされた羽音が、生理的嫌悪をもたらす臭気が。  現実感が酷く希薄だ。「俺は夢でも見ているのだろうか」と呟いた。「知らない」と男はにべもなかった。なので青年は「食欲がない」と脈絡なく言った。 「食欲がない? そっか。じゃあ先に髪の毛、綺麗にしよっか」  玄関にサンダルを脱ぎ捨てて廊下に上がりながら男が言う。「お風呂場こっち。ついでにシャワー浴びようか」と案内しようとしている。青年は未だ治らない吐き気と共に眉根を寄せた。 「……でも、あの」 「君には赤色が似合うから」 「だけど」  他人に、それも初対面の男に髪を弄られることに、青年は躊躇を覚える。「髪色は気にしてないので大丈夫です」と答えるが、「気にしてないなら何色にしてもいいじゃない」と言われてしまえば、反論のカードがない。 「……確かに、あなたに恩はありますが」  そう、青年にとって、この男は『見ず知らずの人間を自宅で保護してくれている、奇特なれどありがたい存在』なのだ。常識的に考えると、立場としては『男>青年』であり、青年にとって男の機嫌を損ねる行為は悪手なのである。ゆえに青年は強くNOを言えないでいた。 「うまくやるから大丈夫大丈夫」  一方で男はすっかり、まるで拾った犬を洗うかのように、その気のようである。その朗らかさと図々しいほどのなつっこさは、先ほど死体を表情一つ変えずに焼いた男の言論とは、あまりにも感じ難かった。  なぜ――それを青年は知っている。男を始め、地球の人類は、ほとんどが『こう』なのだ。  ――地球にいつからか発生した災厄。  それは隕石でも病気でもなく、「人類が無気力になっていく」という現象だった。  まるで鬱病末期のように欲求が薄れていき、自らの記憶に執着もしなくなり、無為な廃人になっていく――漫然とルーティンを繰り返すだけから、やがて、生きる為の必要な行動すらもしなくなり、衰弱死していく。  原因究明は行われなかった。皆、無気力を『発症』したから。だから温暖化もほったらかしになり、今、地球の大地は水に沈みつつあった。  青年の目に映る男に『正常な執着心』というものはない。死体に慄く倫理感、人を殺める道徳観、滅びゆく世界への危機感。そういったものに執着し理解を示し行動する気力が、男からはゴッソリと失われていたのだ。  ――眩暈がする。青年は、廊下の奥の暗闇に、レンガ片で顔を割られた人間が立っている幻覚を見た。その頭部は満開のブーゲンビリアだった。青年の喉が空気を吸い損ねて、ひゅっと鳴った。  ――立っていられない。言いようのない不安。焦燥。うつむいた青年は「俺はやっていない」と縋るように言葉を吐いた。蒸した温度が背中を撫でる。気付けば青年は膝をついていた。 「大丈夫? またヘンな感じになってるの? そういう病気なのかな」  そのまま床に倒れそうな青年の肩を、男が支えた。「俺は病気なんかじゃない」と青年は声を震わせた。「でも入院する人が着てる服を着てたじゃない」と男は答えた。見下ろす目に非難はないが、やれやれしょうがないな、といった色合いだった。 「違う、違う、俺は、俺は――俺は……」  支えられる手を掴んで青年は訴える。チクチクと痛い。足が、腕が、針、棘、刺さる、皮膚が破ける、痛い、血が、薬が、意識が遠退いていく。遠退いていく。  遠退いていく。
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!