1:ハローの赤色

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 虫の声が聞こえる。  青年は暗闇の中で目を覚ました。他人のにおい、布の感触……星と月と街灯に照らされてぼんやりと辺りが見える。あの『寝室』だった。  意識がボンヤリして、視界がフワフワして、まるで一枚のフィルター越しに世界を見ているかのようだ。 「……ゆめ、……?」  ブーゲンビリアの花。朗らかな顔で死体を焼く男。入道雲。脳に残った歪な記憶を、青年は手繰り寄せる。現実感がない。だけど自分の服が患者衣ではないことに気付いて、それらの記憶の断片が夢ではないことを悟った。  窓の外は夜だ。星がとても綺麗に見える――だけど空き地を見たくはなくて、青年は『外』というものから意識を逸らした。  と、その時である。いいにおいが漂ってきた。それから別室で人の気配も。  青年は寝室を見渡した。あの男の姿はない。彼は物音がする部屋にいるのだろうか。 (そういえば「ごはんを食べよう」とか言ってたな……)  気分が悪くて食欲がない……と言いたいところだったが、青年の本能的な欲求はどうしても、胃が痛いほど食事を求めていた。まともに水分も摂っていないことも思い出す。意識すれば途端に口が渇いた。浅ましいものだな、と青年は自嘲した。  なので青年はベッドから降り、男がいると思しき場所へ向かった。暗い廊下、なんどもゴミにつまずいてゲンナリしながら。  そこは居間、だったろう場所だった。電気で照らされたその場所は、例によってあれやこれやで散らかっている。テーブルの上には雑多に物が置かれていて――いつかの新聞紙を鍋敷き代わりに、底深のフライパンが雑く置かれていた。いいにおいの正体はこれだった。インスタント麺に、冷凍の野菜とシーフードを突っ込んだだけのジャンクフード。取り皿二つと箸二膳。 「あ、起きた? すごい寝てたね。疲れてたのかな」  そして、あの男がいた。ちょうどコップと水入りペットボトルを持ってきたところだった。彼はそれらをいそいそと狭いテーブルに置くと、同じテーブルに置きっぱなしだった手鏡を取って「じゃじゃーん」と青年の方へ向けた。 「……うわ」  青年は顔をひきつらせた。鏡に映っていたのは、真っ赤な髪の青年自身だった。しかも無駄に洒落たツーブロックにまでされている。 「ね、うまくやるって言ったでしょ」  男は得意気だ。年齢に似つかわしくないVサインまでしてみせる。 「昔、いろいろ自力でやったなー……髪の毛ちょっとしかカットしないのに散髪屋にケッコーなお金払うの、バカらしくない? とか、なんか、そういうの、多分ね」 「あ、赤色。派手すぎませんかね」 「赤色でいいんだよ。いいの。だって君はすごく赤色だったから」  支離滅裂で理解不能な言葉だ。しかし青年は、まだ男の『症状』が軽い方であることに感謝した。少なくとも生きるための最低限はできる。意思疎通もなんとかできる。とはいえ、いきなり髪を好き放題されたことに関しては複雑な気持ちだ。 「ていうか、風呂場でやったんですか……もしかして裸に?」 「染めた後に洗ったりするでしょ。まあ男同士だし別いいじゃない。グッタリしてて大変だったけど、じっとしてたからやり易かったよ」 「は、はぁ……」 「ほらラーメン食べよ。のびるよ」  男は手鏡を置いて椅子に座った。青年も複雑な気持ちを飲み込んで、促されるように着席する。 「いただきます」 「……いただきます」  手を合わせた。食事が始まる。とにもかくにも喉が渇いていた青年は、コップに注いだ水を一気に飲み干した。それをもう一度繰り返してから、ようやっとラーメンに手をつける。体に染み渡る濃い味だ。温かい。雑に入れられた具材すらも、空腹のせいで狂おしいほど美味に感じた。  胃が満ちていく。生きるために他ならない行為に、青年はじわりと涙が浮かびそうになった。不安と安堵、相反する感情がそこにあった。 「おいしい」 「ありがと」  湯気の向こう、男はニコニコと微笑んでいた。「誰かと食事なんて久しぶりだなぁ」と貝柱を頬張って、言葉を続ける。 「君とはきっと、友達になれると思ったんだ。僕ら、似た者同士だから」 「似た者同士……?」 「分からない? 君が分からないなら、分からない。でも、僕には分かるよ。すぐ分かった」  意味が分からないチグハグな言葉だ。返事に困った青年は「そうなんですか」と無難な言葉を返しておく。すると男はとてもとても楽しそうに笑った。 「よろしくね。ずっとここにいていいからね。ここ、いい家だろ?」 「……あなたは、この家が随分とお気に入りのようですね」  いい家だろ。その言葉を青年が聞くのは、初めてではない気がした。青年の言葉に男は「両親と一緒に住んでる大事な家だからね」と答える。 (両親……)  だがこの家に、男と青年以外の人間の気配はない。青年は昼間に見た、車の中で朽ちていた人間を思い出す。男の両親も……生命維持活動の気力を失い、衰弱死したのだろうか。そう考えると、青年は男に両親のことを言及するなんてできなかった。なのでどうにか、ぎこちなく笑い返して、こう言った。 「いい家ですね。折角だから、後で掃除をしても?」  なにせここはゴミ屋敷だ。青年は汚い場所で過ごすことが、些か耐えられそうになかった。男は表情をぱっとさせて、「君って最高」と声を弾ませた。  同時に青年はふと気付く。紛れもなく、今、青年が心に安堵を感じていることを。苦しくて気持ち悪くて不安だったのに、食事をしながら笑えているという事実を。そして、こんな時でも笑顔が作れるのだな、という皮肉を。  なんだか――酷く懐かしい、心地だった。
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