2:ラベリング、ボーリング

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2:ラベリング、ボーリング

 じりじりと、夏の太陽が午前を通り過ぎた。  蝉の声は朝から変わらず、開けっ放しの窓からは生ぬるい風が吹き込んでくる。庭園では鮮烈な花々が、南国もかくやと咲き誇っていた。 「がんばったねぇ」  男は床に寝そべっている赤髪の青年を覗き込んだ。仰向けに目を閉じていた青年がゆっくりと目を開ける。 「疲れた……」  そう言って青年は目を閉じた。青年の体を途方もない疲労が包んでいる。というのも、早朝に目覚めた彼はついさっきまでそれはそれは熱心にゴミ屋敷の掃除をしていたのだ。  一先ず寝室。湿っぽい布団と枕を干して、剥いだカバー類とタオルケットは洗濯機に突っ込んだ(なお洗濯機も薄汚れていた)。  そして寝室の足元を埋めるゴミを遠慮なく、近くのゴミ捨て指定場に持って行く。この往復を何回やったことか。ゴミ収集車が無人自動運転化して久しいが、果たして無事に来るのかは不明だし、ゴミ捨ての日や分別というルールのクソもないが、青年は不衛生な場所がとにかく嫌だった。  ゴミを退かした床は、掃除機……はどこにあるか不明なので、使っていなかったタオルを引っ張り出して地道に拭いた。とにかくホコリまみれで、いちいち雑巾代わりのタオルを洗わねばならない重労働となった。掌の傷がとにかく沁みたが、背に腹は代えられなかった。化膿してくれるなと祈るのみである。  それだけ青年が熱心に掃除をしても――寝室の掃除は完了していない。空っぽのベッドの足元、青年は力尽きた。そもそも青年はあまり体力がある方ではなかった。汗びっしょりで、暑さと疲労で食欲も消えた。どうにか寝そべることができる程度には床は綺麗になった……と思いたい。 「君って潔癖っぽいんだね」  寝そべる男の隣に座り、男が言う。彼は青年の指示の下、ゴミを運ぶ程度の手伝いはしていた。今は昼食代わりのカロリーブロックを齧っている。 「……」  青年は何も返さなかった。潔癖も何も、あれだけ散らかって汚れていれば綺麗にしたくなる……と思うのだが、目の前の男にそれを熱心に語ったところで伝わらないだろうと思ったのだ。 (疲れた)  がんばりすぎた反動がどっと押し寄せる。何もしたくない気持ちが青年の心を支配する。  こんなに体を動かしたのはいつ振りだろうか。あちこちの筋肉が痛い。 「そういえばさ、聞きそびれてたんだけどさ」  次に青年が目を覚ました時、空はもう昼下がり過ぎだった。男の声で漫然と目を開き、顔を少し横向ければ、先ほどと同じ位置にいる男の姿が目に入る。青年が横になっていた時からずっと、そこにいたらしい。 「なに……」  寝すぎたな、と緩い頭痛を覚えながら、青年は乾いた声と共に上体を起こした。 「君って結局、どこから来たの。病院? どこの病院?」  横目に微笑む、ありふれた小市民の造形をした男が言う。 「……俺は」  青年は視線を落とした。腕の内側、たくさんの注射痕はまだ治らない。  ズキリとして、チクリとして、顔をしかめて青年は額を抑えた。  ああ。連れていかれる。抑えつけられる。注射の針が迫る。白い病室。白いベッド。白い服の人々。心臓がドクドクと跳ね始める。たくさんの目。たくさんの手。たくさんの針。抜け出して、走り出した時の、暗い暗い暗い廊下を覚えている。非常灯の不安を煽る緑色の列を。素足で走っていた。逃げ出した。そして。そして? 色彩が混ざる。連れ戻そうとするから。白い服。ブーゲンビリアの花。それから?  ――ぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。  いないはずの蠅共の羽音が鼓膜を這った。青年は目を見開いて顔を上げた。そうすると、蠅が一匹、寝室を横切っていた。それが幻なのか本物なのか、青年には見分けがつかない。否、幻でも本物でも、そこにいる蠅という存在を、認識した時には、もう。 「うわあああああああああああああああああああッッ!!」
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