2:ラベリング、ボーリング

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 叫んで叫んで絶叫して――青年は、蠅を殺そうと躍起になっていた。物を投げて暴れて、渦巻く視界が少しマシになった時には、まるで項垂れるようにまだ片付けられていないゴミの中で手足を突いていた。 「どうして」  はあ、はあ、と息を弾ませる。長く水分を摂っていなかった唇は渇いていた。 「どうして、誰も信じてくれないんだ。誰も話を聞いてくれないんだ。どうして誰も、気付かないんだ」  男の眼差しを背中で感じながら、青年はよろよろと立ち上がる。 「こんなのおかしいじゃないか。みんなが無気力になっていく。みんなが何もしなくなっていく。なのに誰も、それをどうにかしようと言わないんだ。それがおかしいって気付かないんだ。何も見やしないんだ。どうして。どうして。こんなのおかしいのに、おかしいのに」  そうだ。人類の危機なのだ。地球の温暖化は進み、人類にも未曽有の『症状』が行き渡り。でもそれを解決しようとする者や、どうにかせねばと立ち上がる者がいないのだ。それが青年には狂っているように見えた。  そうだ。青年にとって、この世界は狂っているのだ。青年の世界において、正気な人間は青年だけなのだ。 「みんな、みんな、狂っていく。どうして俺だけ正気なんだ。俺だけどうして。みんなが俺を狂人扱いするんだ」  額に爪を立てる。頬を掻く。薄暗い天井を仰ぐ。蝉の声。ずっと閉じ込められて日に晒されていなかった肌に汗が伝う。 「どうして。どうして? これは夢なのか? 俺は夢を見ているのか? まだクスリの所為で? どうして? 俺は何を間違えた? どうして俺にクスリを打つんだ! 俺は狂ってなんかない! 俺はおかしくなんかない! 俺は、俺は! もうやめてくれぇッ!」  無気力になった人間は、次第にルーティンを繰り返すのみとなる。患者の症状に関係なく、薬を何度も何度も打つだけになる病院の人々。その結果は地獄でしかなかった。患者の生死に関係なく同じ手術を繰り返す狂宴すらも、そこでは日常だった。 「お願い……だから、病院は、もう、やめてくれ。連れて行かないでくれ。クスリは嫌だ。もう嫌だ。あ、あ、頭がおかしくなるんだ、だからもう、ごめんなさいやめてくださいお願いします」  額に立てられ頬まで伝った爪は、青年の顔に容赦のない赤い傷口を作っていた。ぬるついた血がぷっくりと玉を作って、そして重力に這う一縷の川となった。 「血が出てるよ、大丈夫?」  その手首を男が掴んだ。ゴミ溜まりから、掃除された清潔な床の方へ引っ張った。青年はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、従順に引きずり出される。そのままぺたりと、床の上にうずくまった。 「……俺は今、何を、言ってた? ボーッとする……しんどい……」  何度も瞬きをして、青年は指についた血と顔の出血にギョッとした。「なんだこれ」と慄くので、「自分でやったんだよ」と男はキョロキョロして、それからぺしゃんこになった箱ティッシュを掴み取って、開封して、数枚をごっそりとガーゼ代わりに青年の傷に押し当てた。そうすれば、男と青年の視線が合う。 「元気になったみたいだね。お水、飲む?」  男は青年の凶行または奇行を全く意に介していなかった。常識というものが欠落してしまっている。ただ、さっきみたいに喚き散らして暴れ散らかす状態から、比較的冷静になった様子を見て、落ち着いたのかなーと判断していた。  青年は男が差し出したペットボトルを受け取った。それを飲む。飲み干していく。そういえば胃袋が空っぽだった――染みていくようなぬるい水。  はあ、と青年は深く深く息を吐く。そして先程の思い出せない意識の空白に、不気味な心地を覚えていた。あのクスリのせいなのだ。クスリのせいなのだ。きっとクスリのせいなのだ。時々、意識がぐるぐるして、どろどろして、混ざり合う渦になって、何も思い出せない空白ができるのは。 「ねえ」  男が不意に青年を呼んだ。彼は未だ、ティッシュの束で青年の傷を抑えている。今一度、二人の視線が重なった。剃り残しの無精髭が残っている顔で、男は続けた。 「君の名前、アカネでいい? 君は赤色が似合うんだ」
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