2:ラベリング、ボーリング

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 名前――そういえば、青年は互いに名乗ってすらいなかったことを思い出す。 「アカネ……」  そして青年は気付くのだ。自分の本当の名前が、もう思い出せなくなっていることに。それがクスリの所為なのか、全人類共通の『症状』――記憶への執着欠如なのかは、もう分からない。渇いた笑いが込み上げた。心の中の何か大切な部分が、ぽっかりと損なわれてしまったような心地だった。 「……分かりました。俺の名前はアカネです。……アカネでいいです」  拭われ損ねた血が、青年の頬を涙のように一雫、伝った。ポタリ、と掃除したばかりの床に小さな赤い花を咲かせた。 「あなたの名前は」  青年――アカネも目の前の男に問うた。同時に、まるで自分はこの男の愛玩動物のようだと感じていた。 「僕の名前?」  男は朗らかに小首を傾げる。少しの沈黙の後、こう続けた。 「名前、なんだったかな。僕のはどうでもいいじゃない。忘れちゃったんだもの」 「……そうですか」 「アカネ。アカネ。うん、君の名前は忘れないよ。忘れないようにするよ。きっと毎日呼んでれば大丈夫だよ」 「名札でも付けますか」 「それジョーク? はははおもしろいね」  男――名前が分からないままの彼は、アカネの額に宛がわれたティッシュを退けた。青年の赤い傷口に、ティッシュの繊維が幾つか付着して残る。一間を空けると傷の痛みが鮮明になってきたアカネは新しい紙を取ると、顔に伝った血を拭きながら問いかけた。 「あなたに名前がないなら、なんて呼んだらいいですか」 「なんでもいいんじゃない。言ったでしょ、僕のはどうでもいいじゃない、って。僕の名前のことはもういいでしょ?」  男は自分の名前については全く興味がないらしい。「そうですか」とアカネは答えた――男はこう言うが、玄関に表札があるだろう。それを見れば苗字は分かるか、と考える。だけど男本人が「どうでもいい」と言っているので、表札をわざわざ見ることは選択肢から外した。アカネにとっても、男の名前を知ることに重要性を感じなかった。 (……名前に何の意味があるのか)  顔を拭き、床を拭き。しかし、空虚になっていく心を正気に留めてくれている、ような気がした。アカネは血の付いたティッシュを手の中にくしゃくしゃと握り潰す。皮肉なものだ。正気を失った男との会話で、正気を保とうとしているなんて。 「赤色が本当に似合うねぇ、アカネは。ねえ、ごはん食べたらさぁ」  男が床の上にポイとティッシュを放る。 「散歩でも行かない? アカネ、この家は汚くて好きじゃないんだろ」 「……まあゴミが多いのはちょっとアレですけど」  散歩に行くことには肯定を示しつつ――ますます犬みたいだなとも考えつつ――アカネは『主人』が捨てた、自分の血が付いたゴミを拾った。そして気付く。この部屋にゴミ箱がない。 「ついでに、どっかでゴミ箱でも買いませんか。あと食糧とか水も……ああ、洗濯用の道具と掃除用具も……」 「いいよ」  二つ返事だった。「じゃあまずごはんだね」と男は踵を返す。アカネはそれについていく。干しっ放しの布団類を取り込まないとなぁ、と心の中で想いながら。  薄暗い廊下。男はあまり電気をつけるのが好きではないようで、照明のない廊下は遠くの夏空のお陰でどうにか明度を保っている。暗くて長い廊下。トンネルのようだ。気の早いひぐらしの声が一瞬だけ、どこかから聞こえた。  と、その時である。廊下をゴミをまたぎ歩いていた男が立ち止まる。 「汚いけど、汚いけど、汚いけどさ、でも、いい家でしょ――ずっとこんな家に住みたかったんだ」  それだけ言って、また、振り返りもしないで、男は歩き始める。  アカネは「そうなんですか」とだけ頷いた。それ以外のリアクションなど、思いつかなかった。
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