夏の夜のアラベスク

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 某大学ピアノ部の夏合宿2日目。毎晩開かれる大広間でのコンパは、この日も酒の匂いと活気に満ちあふれていた。  谷津坂(やつざか)(たける)もご機嫌な参加者の1人だった。昼間の練習から身も心も解放されたからか、それとも、ついさっき友人から仕入れた面白い情報が関係しているのだろうか。理由は定かではないが、とにかく気分がいい。  谷津坂はふと、こんな夜はピアノを弾くに限る、と思った。ピアノ漬け生活中に馬鹿げた話だが、「デザートは別腹」という感覚に近いかも知れない。  そうと決まれば実行あるのみ。谷津坂は陽気な声が行き交う大広間をふらりと離れ、同じ1階にある練習室へと向かった。髪色に近いダークブラウンのスリッパをカパカパ言わせながら、カーペットで覆われた長い廊下を歩く。まだまだ夏日の続く9月とは言え、湖畔の安いホテルの夜は少々肌寒く、谷津坂は密かなコンプレックスである低い鼻をスンとすすった。しかし、酔い醒ましの散歩にはちょうどいい。  弾くなら明るい長調の曲がいい。例えば『アルプスの夕映え』とか。いや、ここは軽やかなショパンの『小犬のワルツ』にするべきか。何しろ愉快で仕方ないのだ。 ――先輩、今から練習ですかぁ? お疲れ様でーす。 ――練習熱心だな、谷津坂。  途中ですれ違った部員のコメントに苦笑しつつ、谷津坂は目的地の前に到着した。24時間音出しができる練習室には、ピアノが5台と、電子ピアノやキーボードの類が数台ある。今なら演奏し放題のはずだ。  ところが、ドアに近づいてみると、中から機械的な旋律の練習曲が聞えてきた。どうやら本当に練習熱心な部員がいたらしい。谷津坂は一瞬ひるんだが、ちょっと考えてみれば何も問題はなかった。中にいるのが、先輩かつ自分より上手い人間でさえなければ、別に遠慮する必要はない。  うんうん、と自ら頷いて、谷津坂は堂々とドアを開けた。もし先客が誰か知っていたなら、結論は違うものだっただろう。  
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