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30畳弱のカーペットフロアの練習室。その片隅で一人黙々とピアノを弾いていたのは、谷津坂と同じ2年の男子部員――「P部のプリンス」こと佐伯修二だった。
練習曲は新たな来訪者を気にする様子もなく続いた。まるでピアノの自動演奏の様に、完璧なタイミングで音が鳴っていく。メトロノームでテンポを確認している訳でもないのに、だ。幼い頃からピアノをやってきた谷津坂には、分かりたくなくても分かってしまう。単純にテクニックだけを比べるなら、佐伯の方が一枚上手だった。
谷津坂は知らず知らずの内に奥歯を噛みしめていた。お上品な顔でこんな風に演奏されると、いつもながら胸がモヤモヤする。ちなみにこれは嫉妬ではない。もっと複雑で高尚な感情である。頭の中で勝手に流れ出した『雨だれの前奏曲』の陰鬱で重々しい中間部はこの際無視だ。
何にせよ、すっかりやる気が失せてしまった。佐伯のピアノをこれ以上聞いても「高尚な感情」が増大するだけだ。単調なメロディにうながされ、谷津坂は練習室を静かに去ろうとした。
が、その時、「あること」を思いついてしまった。
先のコンパで聞いた面白い情報――佐伯に関する驚くべき事実。彼を「プリンス」と崇拝している連中、特に女子部員が知ったら、ショックで泣き出してしまう人が出てきそうな内容である。情報源の同級生には口止めされているが、本人に確認する分には構わないだろう。
再び上機嫌モードになった谷津坂は、意図的に口角を吊り上げた。小気味よくスリッパを鳴らしながら、軽い足取りで壁際のプリンスの後ろ姿に近づく。果たして、どんな反応をしてくれるだろうか。
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