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目覚まし時計が鳴ると、夜のうちの思考もどこかへ吹き飛んでいる。いつものことだった。
無意識のうちに身支度し、家を出る。
途中、携帯電話を落とした。
それは橋の上のタイルを滑り、欄干にぶつかって止まる。あわてて走り寄り、拾って傷を確かめていると、欄干の間からいつもは目にしない川が見えた。
昨日は晴れだったし、地面も濡れていないが、上流の方は雨が降ったのだろうか。意外と水量は多く、水流も速い。
川岸に、何だろう、黒い塊が見える。
亀か。
よく見えはしないが、そう思った。
田舎育ちの私は、子どものころ、亀をよく目にした。道路を横切っているのや、道路脇の水路にはまっているのもいた。そうだ、近所の池にもたくさんいた。泳いでいたり、石の上で日向ぼっこしていたり。
久しぶりに子どもの頃を思い出して立ち止まっていると、
「おいでよ」
声がした。
亀だ。
そう思った。でも、行くわけにはいかない。そうだ、私は仕事に向かう途中なのだ。
ほんの数分間の出来事だったが、いつもぎりぎりの時間に出勤する私には立ち止まっている時間などないはずだった。
あわてて携帯電話をポケットに戻し、体の向きを変えた私に、再度、声がした。
「いいから、おいでって」
目の前に、亀がいた。
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