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私は、古民家の前に立っていた。「貸し物件」と書かれている。
私はあれから、電車に乗ったのだ。亀と一緒に、いや、亀に連れられて?
何駅かすぎて、乗り継いで、また何駅かすぎたところまでは覚えている。
「気がついた?」
亀が聞いた。気ならずっとついている。いや、もしかしたら違うのか。どういうことだかさっぱりわからない。返事に困っていると、
「大丈夫、仕事なら、辞めてあるから」
亀が言った。
「え?辞めてある?」
そうだ、私は通勤途中なのだ。午前中は会議も入っているし、資料だってこのカバンの中だ。上司は怒っているだろうし、同僚は困っているはずだ。
そう思って何気なくさぐったカバンには、あるはずの資料がない。かわりに、通帳と印鑑が手に触れる。いつの間に入れただろうか。
「じゃ、そろそろ行くから」
あわてて亀に目をおとすと、そこにはもう亀はいない。
「帰りたくなったら、また呼んでくれたらいいから」
頭の中でする亀の声。私は慌てて呼び止める。
「ちょ、ちょっと待って、これはどういう」
亀はそれには応えない。
「そうか、合言葉が必要だね。そうだなあ、[仕事が終わった]にしようか。そう言ってくれればすぐまた来るから」
「仕事が終わった?仕事って、辞めたんじゃ?」
そもそも合言葉って何だ。わけがわからない。
「言っておくけどね、ちゃんと仕事してからじゃないとダメだからね。心にもないことを言ったって、すぐにわかっちゃうんだから。じゃ、またね」
それきり、亀の声は聞こえなくなった。
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