第一話

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小鳥の囀ずる春の季節、蝉が忙しなく鳴き叫び頬に伝う生暖かい汗が滴る夏。 少し蒸し暑さが残るが、だんだんと風が冷たくなり冬の訪れを知らせる秋。 そして空一面が冷たい雪が降りかかり、銀世界を描いた冬。 毎年ずっと、そんな当たり前な景色が約束されている……あの時まではそう思っていたんだ。 元気よく腕を振るい、大地を駆け回る少年達…ついこの間まで自分もそれが出来ていたんだ。 なのに今は、青い無地の寝間着を身に付けて茶色く無機質に冷たいベンチに腰を下ろし…ボーッと虚ろな瞳でただ目の前で広がる景色を眺めるだけの退屈な毎日を過ごしていた。 景色は日に日にどんどん変化を見せているのに、自分は何も変わらない…まるで、自分一人だけ置いていかれたようだった。 「お兄ちゃん元気出しなよ!すぐ退院出来るって!」 そう言いながら隣に腰を下ろす妹に目線を向けると、頬がひんやりと冷たくなった。 少し強い風が吹いて、寝間着の裾が少しばかり揺れた。 肩まで長い髪が揺れて、顔に掛かったのを文句の一つを言いながら片手で頭を押さえていた。 妹はいつもと何も変わらず、怒ったと思ったら笑い…コロコロと表情がよく変わる。 妹が差し出したものは、病院の待合室の自動販売機で見つけたフルーツ牛乳の缶ジュースだった。 ここに初めて来た時に珍しい缶ジュースだとはしゃいでいた事が昨日のように鮮明に思い出す。 実際は去年の春の出来事だった、そう…去年の春…全てが変わった。 夢も希望もあったキラキラと輝いていた筈の未来が灰色に変色したんだ。 高校生になったら何をしようかと胸が弾んで学校のパンフレットを眺めていたら、声楽部という部活に心が持っていかれた。 子供の頃から歌を歌うのが好きだった、独学で歌を練習していて高校卒業したら本格的に海外で歌を習おうとまで考えていた。 両親との絶対の約束、高校卒業したら好きな事をしていいと言われていて夢に向かって一歩踏み出すところだった。 決して裕福な家ではないし、両親はとても厳しい人だったがそれは子供のためだと分かっていたから今まで非行に走ったり道を違えた事はなかった。 でも、道を違えずまっすぐに進んでいると思っていても、足元の道が崩れる事は想定していなくて崖から真っ逆さまに落ちていった。 中学卒業前日の出来事、家のリビングで夕飯を家族と食べていた時…急に意識がなくなりそのまま椅子から落ちて全身を強く打った。 目が覚めた時は、いつもは厳しい両親の初めての顔が間近で見えて理解出来ないまま母に抱き締められた。 泣き腫らしたかのように目元が赤くなっていて、胸が締め付けられるように苦しくなった。 横を見ると、真っ白な白衣を着た50代くらいの眼鏡が優しく印象的な男性と、若い白い服を着た女性が立っていた。 その隣には両親と同じように目元を腫らして、立っている妹の姿があった。 そこでここは病院で自分は運ばれたのだとすぐに理解した。 卒業式間近で緊張からだと勝手に思い込んで、両親達には心配させないように笑った。 春の風に桜が拐われていく景色が広がる季節の出来事だった。
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