止まない雨があってもいいだろう?

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 運転席から外へと足を踏み出してみると、案外辺りに水溜まりはできていない。周囲を見回した後、亮一は車のドアを施錠した。 「昔みたいな夕焼け、見せられなくて残念だな……」 「んー、そうね。でもいいのよ、夜の海だって綺麗じゃない? それに、星だって東京より断然見えるし」  残念ながら目指していた夕日は豪雨のうちに沈んでしまったらしく、空の色は殆ど紺に近い藍色に染まってしまっていた。白や赤、青の星々がパラパラと輝き始めている。確かに遥美が言うように、普段の街で見上げる空よりも、星が何倍にも多く思えた。騒がしいネオンが邪魔をしていないからだろうか?  遥美は穏やかな笑みを浮かべた後、一人で波の近くへと走って行った。対する亮一はその場で立ち止まったまま、眼前に広がるパノラマを眺める。ザザザーッと小刻みに打ち寄せる波。一際輝きを放つ金星。今この世界には自分と遥美しか存在しないのではないか、なんてエゴイスティックな思い込みすら抱いてしまう程に幻想的で美しい。  ぼんやりと昏い世界を望んでいると、浜辺に立つ遥美がこちらに向けて何かを言おうとしている姿を認めた。 「ねえ、亮一くん! ぜーったいに一度しか言わないからよく聞いて。……ありがとうね、いつも!」 彼女はそう叫ぶように言い、更に波打ち際へと駆けて行く。  夜空の色と海の色とが交わって、二つの境界線がすっかりあやふやになっていた。このまま更に夜へと時計の針が進めば、きっと今見ている景色は星明かりだけになって、その境界線すらも見えなくなるのだろう。  遥美の叫んだ内容を反芻する。波打ち際に佇んで夜空と海を望んでいる彼女の背中が、どうしようもなく愛おしい。数多の波や海水、そしていつか降り注いだ雨、それらが鮮やかな蒼や深い藍を見せるかの如く、長い長い時間をかけてゆっくりと積み上げてきた愛しさがひとつの感情を生んだ。心と体を突き動かす、そんな情動。このまま飲み込んでしまうなんて、出来ない。  今度こそは────! 意を決して、亮一は海辺の心地よい空気を精一杯吸い込む。 「────あぁ、愛してるよ!」 そして亮一は叫んだ。辺りが暗くなって何も見えなくなってしまう前に、愛する彼女へ先程の答えを伝えたくて。今の彼がもつ限りの情熱を、『愛してる』の一言に込めた。ずっとずっと誤魔化し続けてきた愛おしさは、遥美へ届いただろうか?  ところが亮一が想いの丈を海へとぶつけたと同時に、それまでとは比べ物にならない程大きな波が打ち寄せてきた。ザバン! と大きな波音と男の叫び声が重なり、やがて声はかき消される。肝心な時やここぞと言う時も、どこか思い通りにいかない。俺はいつもこうなんだ、と自己嫌悪に陥る亮一。失望を胸の奥底に抱え込みつつ閉じていた瞳を開く。  やがて視界の中に存在するものを見つけた時、自然と笑顔が込み上げてきた。間違いなく、遥美に積年の想いは届いたと言える。  だって、彼女は亮一の目をしっかりと見つめながら、いつかと同じような微笑を返してきたのだから……。 浜辺から駐車場へ戻りつつ、亮一が遥美に問いかける。 「そういえばさ、飯どうする? 今から家帰って作るのも遅くなっちゃうし、どっか寄って食べて帰ろうよ」 「んー……しゃぶしゃぶ食べたい」 「しゃぶしゃぶって大体冬に食うもんじゃないの? まだ八月じゃん。しかも今夜熱帯夜の予報でしょ? 食べ終わった後体温上がりそう」 「真夏にも関わらず週二でラーメン食べてる誰かさんには言われたくないんですけど?」 「……そっ、それとこれとは別、だろ」 車のロックを解錠した。運転席へと腰を下ろしてしまえば、間違いなくまたいつも通りの日常に戻っていく。人知れず妻への愛しさを積もらせる、そんな日々が。でも、それで構わない。恋愛ドラマで見るような愛を囁きあう甘い毎日じゃなくていい、ただ明日も明後日も彼女と些細な会話をして、同じ屋根の下に帰ることができるなら、それでもう十分に幸せだと思える。  そしていつかまた募らせた感情が器から溢れてしまいそうになったら、出せる限りの大声で一度だけ『愛している』と叫ぼう。きっと、この夕立が止むことはない。出会ってから何年経とうが、自分は隣にいてくれる彼女が大好きだ────。  そんな言葉が溢れてきたが、亮一はそっと胸にしまった。僅かに息を吐いてハンドルを握る。 「じゃ、しゃぶしゃぶ行くか」 「いいんだ? さっきちょっと反対してたのに」 「だって遥美、しゃぶしゃぶ食べたいんだろ?」 運転席からフロントガラス越しに見えた夜空、そこに浮かぶひとつの星が、ほんの一瞬綻ぶように瞬いた気がした。明日のこの海岸の天気は、きっと晴れだろう。        完
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