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過去の出来事を頭の片隅にて懐かしみつつ、亮一はハンドルを動かす。遥美が独身時代にこの車を購入した際同時に設置したというカーナビに一瞬視線を向けると、現在地を表す赤いピンは一旦休憩に寄ろうと計画していたサービスエリアのすぐ近くを指していた。
先程から沈黙が続いている左隣をちらりと見遣る。連日の仕事や家事の疲れからだろうか、出発から程なくして、助手席に座る遥美は微睡みへと足を踏み入れたようだった。すやすや、なんて擬態語が相応しい彼女の寝顔に、陽の当たる窓辺で丸まって昼寝をする猫の姿に近しいものを感じる。穏やかなその表情に漠然とした愛おしさを掬いとった亮一は、それを誰にも悟られないよう僅かに微笑み、それから小さく息をついた。
思えば結婚してからというもの────否、正式に男女の関係へと発展したあの頃からなのか?────間違いなく亮一の『当たり前』を象る大事な一ピースとなった遥美に対し、愛しさが心の中でどれだけ降り積もっていったとしても、周りに在る全てに気づかれてしまわないよう隠しているような気がする。勿論、遥美自身にも。小さな雫が水面を揺らそうが、夕立の如く激しく降りつけようが、持て余した感情は全て一瞬の溜息に変えて誤魔化してきた。そう、ずっと不明瞭にしてきてしまった。嗚呼、なんて勿体ないのだろう。本当はこんなにも、遥美のことが────。
しかしながら、これまでの自らへの嘘に気づいてしまったところで何かを変えることなんてできる筈がない。もう十年近く、知らず知らずのうちに重ねた気持ちを曖昧にして過ごしてきた。この期に及んでそれを遥美に告げることは、亮一にとってそう容易いことではない。そもそも遥美の方も、フィクションやファンタジーにありがちな甘ったるい展開など、今更求めていないだろうし。空想の世界で描かれるような『綺麗な愛情』を彼女から受け取った記憶は、暫くの間皆無だった。それでも仕方ないだろう、二人の関係の名前は、もう十分な程の時間を共有してきた夫婦、なのだ。夫婦とはひとつの家庭を共に営んでいく、謂わば共同経営者のようなもの。麗しい想いだけでは、いつか全てが崩れ落ちてしまう。
幾許かの寂しさと諦念を抱きながら、亮一はサービスエリアの駐車場に車を停止させる為、開いた窓から後ろを振り向いた。
「……ん……もう着いたの? サービスエリア」
如何にも眠たそうな掠れた声が車内に響く。声の主は他でもない遥美だ。彼女の声で、考え込んでいた時間から現実へと一気に引き戻される。車止めのコンクリートに愛車のタイヤが接触したのを確認し、亮一は身体と意識を遥美の方へと向けた。
「あ、起きた? 丁度起こそうと思ってたとこ。そう、高速が考えてたよりも空いてたからさ」
「えー……高速走ってた記憶全くない。まあ空いてたなら良かったね」
「いやいや随分他人事だな……。かなり気持ちよさそうに寝てたよ」
知らないうちに疲れてたのかなー、ちょっとトイレ行ってくるから。そう言い残し、シートベルトを外した遥美はドアを開いて外へと踏み出した。
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