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山下が大きな息を吐く。深呼吸をして心を落ち着かせているのだ。まだ出番ではない。それなのにこんなに色々考えていては頭が疲れてバテてしまう。
会場には武田が家族連れで来ている。妻と女子高生の娘と一緒だ。武田のことをよく知らない人間たちにはよい父のように見えるのだろう。家族とにこやかに談笑しているな、あいつは。
あいつの化けの皮をもうすぐ剥がせる。その時のあいつの顔が見ものだ。時給900円で働いているバイトの身の俺だがプライドまで売り渡したつもりはない。金さえ払えば相手が何でも頭を下げて思い通りになると思っているならそれは間違いだ。お前が付き合っている女子高生とは俺は違うんだ。
昔の法定労働時間が16時間の時のブルジョア階級の豚のようなその偉そうなあいつの顔が俺が秘密を暴露した後でどんなふうになるかが今から楽しみだ。
それにしてもこの大会に来ている人間たちは「アー!!」とか「ワー!!」とか芸のない連中たちばかりだな。まるで言葉になっていない。何の意味もない言葉を発するだけなら人間が前頭葉の発達した知的生物である意味がないじゃないか。あれじゃあ密林で敵がきたことを大声で知らせるオラウータンの群れと大差がない。
会場の看板を山下が見る。
”オウコン”とは何だろう? 王様のコンテストということか? 大きな洞穴に向かって大声を出しているのだから王様の耳はロバの耳に出てくるあの童話の一場面みたいじゃないか。
でもそうだとするとあの”届けようあの人への君の想い”という言葉の意味がよく分からない。王様の耳はロバの耳では王様に聞かれたくないので穴に向かって声を出していたはずだ。まるで好きな人に告白するかのようなそのキャッチフレーズがなぜついているのだろうか?
合コン? オワコン? まったくこの大会の主催者の意図することがよく分からないがそんなことはどうでもいい。武田に復習する機会をくれたことだけは感謝しなくちゃならないだろう。
「クソババア!! オモチャ買って――!!」
「タケシ何言っているの!?」
「うわ。ごめんなさいお母さん」
逃げる小学生を母親が追いかける。
会場から笑い声が起き、山下の顔にも笑みが漏れる。
ハハッ、坊主。オモチャが欲しければ自分で働いて買うんだな。タダで物がもらえるほど世の中はそんなに甘くは無いんだよ。
どうやらこの大会の優勝はもらったようだな。賞金10万円をもらったらどう使おうか? まあ俺は欲しいものなど特にないから貯金でもしておくか。それよりも優勝者としてテレビに映るその姿がカメラのレンズを通して世間に映し出され武田の悪事を大勢の人間に知ってもらうことの方が大切だ。何がなんでも優勝しなくちゃならない。
その時会場全体がシーンと静まり返った。穴の前に現れた男のその巨体に対して人々が驚いたからだ。
デカイ男だ。まるで風船のように膨れたその身体、あれはまるでオペラ歌手のようじゃないか。ああ、そうか、くそう!! プロが出てくるなんて反則だ。
太った大男が大きく息を吸い込む。その身体がどんどん膨れ上がりこれから起きる声帯を使った振動現象によって辺りに大音声が響き渡るだろうということを見ているすべての人間が悟った。
ちくしょう。なってこった。プロのオペラ歌手のその歌声は音速を超え、物理的破壊現象まで引き起こすと言われている。あいつの大声のせいで音響機器やテレビカメラが破壊されてしまう。そうなったら武田の奴に仕返しをする機会が失われてしまう。なんてことだ。
太った大男が限界までその身体を膨らませる。その顔は真っ赤だ。MAX120%の本気をあの男は出すつもりなのだ。山下が自分の鼓膜を守るため耳を手で塞ぎ地面に伏せる。その姿はまるですぐ近くを通り過ぎるジェット機から身を守る空港職員のようだ。
大男が口を開ける。そしてその口からは超音波、空気の波が放射されるはず――。
くそう、もう駄目だ。おしまいだ。プロのくせにこんな所に出てくるなんて大人げないぞ!!
山下が目をつむる。観念したのだ。しばしの静寂。何も起こらない。山下がそっと目を開けると大男はその場にズシンと倒れこんでいた。
恐らく息を大きく吸い込み過ぎたせいで過呼吸に陥り失神してしまったのだろう。
何だ、おどかしやがって。やっぱりあいつはオペラ歌手じゃなくてただの太った男だったか。きっとあの大きな身体に似合わない小さな心臓から送り出される血液が脳まで達することが出来なくて気絶したんだろう。太った男にふさわしい場所は飲食店だ。こんな所にこないでステーキハウスで肉でも食っていればぶっ倒れずにすんだのに、バカなやつだ。
山下がホッと胸をなでおろす。
さあ、今度は俺の出番だ。覚悟しろ武田!!
山下が大きな洞穴の前に立つ。
ずいぶん深い穴だな。底がまったく見えないぞ。落っこちたらまず助からないだろう。なぜこんなにも大きな穴を掘る必要があったんだ? ただの大声コンテストだろう。
まあいい。俺は復讐を果たすことが出来ればそれでいいんだ。武田の奴め。俺の方を指差して家族に何かを言っているぞ。きっと自分のスーパーの従業員がこれから大声を出すとでも説明しているんだろ。バカめ、お前のその行動が自分の首をさらに締めることになる。そんなことをしたら俺が秘密を暴露した後であれは知らない他人だと嘘をついて白を切ることが出来なくなるのにな。
さあ、武田、思い知れ!! 積年の恨み。性欲の塊のお前に長年誇りを傷つけられてきた俺の心の痛みを知れ。
山下が大きく、大きく息を吸う。
おっと、あんまり大きく息を吸い込み過ぎるとさっきの太った男みたいに倒れてしまうぞ。俺の全力を出す必要はない。95%までに力をセーブしよう。それでも俺がこの大会でのぶっちぎりの優勝をすることは間違いない。神から授かったこの大声を出すという特技をフルに利用して武田の悪事を全市民に知らしめてやる。
小さな街だからな。噂なんかすぐにあっという間に街中に広まってしまうさ。そうなれば武田の居所はこの街にはなくなるだろう。武田のやつは確かマイホームのローンの支払いがまだ15年ほど残っているはずだ。それなのに家を売り払ってこの街から逃げ出さなくてはならないとはかわいそうなやつだ。今は不景気だからな。恐らくただ同然の値段でしかやつの家は売れないだろう。それに妻からは離婚を申し込まれ慰謝料も支払わなくてはならないはずだ。きっとあいつは破産同然の状態になるに違いない。
さあ、俺の肺の中には空気が充満した。それはこの会場はおろか街中に声を響かせるのに十分な量だ。武田、怒らせる相手を間違えたな。世の中には怒らせてはいけない人間がいることを思い知るがいい。
山下が大きく口を開き、その口からはかつて人類が聞いたことがないほどの大きな、それはとても大きな声を発した。「スーパー○✗△の店長の武田勤は女子従業員の16歳の川上舞と浮気をしているドスケベ親父です――――――!!」
その声は地面にあいた大きな穴に吸い込まれるように響き渡った。
辺りが一瞬静まり返る。そしてしばらくしてから――。
「山下テメェー!!」
店長の武田が大声を上げて俺を睨みつける。
もう遅いぜ勝負はついた。それでもお前が俺と勝負を望むというのならいいだろう。勝負をしてやる。一対一のタイマンだ。俺は逃げも隠れもしないぜ。でもお前は逃げた方がいいだろう。お前の隣でお前をじっと見ている妻が怒り出す前にな。
「ウルセエンダヨ!!」
誰かが大声で叫ぶ。
誰だろう? 聞いたことがない声だ。それにこの声は後ろの方から聞こえたぞ。後ろには洞穴しかないはずだが――。
山下の身体を地面の穴から伸びてきた大きな手が握り締める。
くっ、くるしい。一体これはどういうことだ!?
はるか昔この世界の覇権をかけてオリュンポスの神々とタイタン族との戦いがあった。その戦いに破れたタイタン族の王クロノスは地面の奥深くにあいたタルタロスの大穴に投げ込まれ長い眠りについた。その大穴が会場に掘られた穴に通じていたのだ。
人々が突如現れた巨人の姿に驚いているその時、王クロノスの前に大会の主催者の男が進み出た。
「クロノス様を目覚めさせたのは、この田中です。クロノス様ぜひこの田中を――」
クロノスが田中を踏み潰す。グチャッ!! と音を立てて潰れるその姿はまさに虫のようだ。
「ウルセエンダヨ!! コノヤロウ!!」
それを見て、人々が騒ぎ出す。
「ダカラウルセエッテイッテンダヨ!!」
「うわっ、目からビームを出したぞ」
人々が逃げ惑う。会場は完全にパニックに陥った。
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