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脱げないピンヒール
下手な字で書かれた『雑役婦募集』の五文字に惹かれたのは、その紙面の向こう側から微かに漂う甘い香りのせいだろうか。それとも、玄関に置かれた二つのランタンの光のせいだろうか。背の高いビルに挟まれて、遠慮深く身を縮こまらせたその工房の前で私は足を止めた。扉の横の中途半端な位置に取り付けられた看板には『飴細工工房・バンダ』とある。
ランタンの光に群がる蛾。それくらいに自然な盲目さで、私は就活用の黒い鞄の中から合皮の手帳を取り出して、やはり下手な字で綴られている電話番号を丁寧に写した。
翌朝、簡単な朝食を済ませ、地味なスーツを着て、携帯電話と手帳を手に取る。簡素なベッドに腰掛けて、慎重に電話番号を押した。3回目のゴールの後、しわがれた老人の声が鼓膜を震わせた。
「もしもし」
不機嫌そうでもあり、好意的なようでもある不思議な調子の声だった。
「昨日、工房の張り紙を見ました。雑役婦の、張り紙です」
間髪入れずに老人が答える。
「今日の夕方。都合の良い時に」
無愛想に電話は切れてしまった。夕方とは何時からなのだろう。何を持っていけばいいのだろう。聞くべきことは何も聞けなかった。
仕方がないので、夕陽が差して部屋に朱色が滲んだ頃に家を出ることにした。
工房は昨日よりも甘い香りを道に充満させていた。近隣から苦情は来ないのだろうかと辺りを見渡すと、昨夜は気がつかなかったが、そこがシャッター街であることに気がついた。シャッターが下りた店たちは、閉まるにはまだ早すぎる時間だ。昨夜、私は一人で死んだ道を歩いていたのだ。恐ろしような肌寒さを抱いたが、電話はもう掛けてしまった。私は工房の玄関に立ち、控えめにドアをノックした。
「ごめんください」
3回のノックの後、少し間を置いてドアが開いた。
「お入りください」
あのしわがれた声だった。声の主は痩せた老人で、硬そうな皮膚に深いシワが刻まれていた。
老人の後について工房の中へ入ると、途端に私は飴の香りに包まれた。砂糖衣に包まれたように全身がベトベトになっていく心地がした。
あらゆる道具が置いてある部屋を通り過ぎて、木製のスツールが二脚とリネンのクロスが掛けられた小さなテーブルがあるだけの質素な部屋に通された。
「お座りください」
ゆっくりとした言葉は、穏やかさの中に拒むことのできない頑固さをたたえていた。
私は大人しくスツールに腰掛け、部屋を出て行く老人の背中を見送った。しばらくして、老人は紅茶の入ったティーカップを私の前にそっと置いて、もう一つのスツールに腰掛けた。
「作業場以外の掃除、食事の用意。仕事はそれだけです。作業場には許可がない限り絶対に入らないでください」
紅茶に口をつける間もなく、老人はそう言った。言ったっきり黙り込んで、私の方をジッと見つめていた。
「ええ、わかりました。掃除に、食事の用意ですね。それに、作業場には入らない」
老人は静かに頷いた。
「結構です。終業時間は午前十一時から午後六時まで。時給は…」
老人はおもむろにシャツのポケットに手を入れると、小さな電卓を取り出して、傷ついた手で数字盤を叩いた。
「これで、いかがですか」
提示された額は思いの外高かった。
「ええ、結構です。十分な額です」
老人は深々と頭を下げた。雪のような白髪が室内の明かりに照らされてキラキラと輝いていた。私はその光に吸い込まれるように、老人を凝視した。
「それでは、明日からよろしくお願いいたします」
老人が顔を上げた時、私も慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
翌日から、私は工房で雑役を始めた。初日に、これ以上ないというくらい散らかった部屋を完璧に整理してしまうと、それからの日々は淡々としていた。老人が脱ぎ捨てた衣類を洗濯機に入れて、昼食を用意する。午後には洗濯物を干し、掃き掃除をして床を拭き、書類等の整理をして、洗濯物を取り込んで夕食の用意。これで就業時間は終わり。煩雑なことや込み入った難しい作業は何もない。それで、老人に挨拶をして、寂しい道を一人で帰路に着くのだ。けれど、そんな退屈な日々に老人の視線が混ざり始めた。老人の前に食事を並べる時、作業場から出てきた老人と廊下ですれ違う時、視線を感じた。性的な欲求を含むいやらしい視線ではない。かといって、純粋な眼差しでもない。ベタついた、真っ直ぐな執着のような視線が私に無遠慮に向けられる瞬間が確かにあった。しかしそれは私を不快にはさせなかった。その視線は罠のような甘い香りを漂わせて、私を誘うからで、その罠に私は滑稽なまでに容易く拘束されつつあるからである。
ある日の夕食の時間、私が老人の前に野菜を多く入れたビーフシチューと付け合わせのサラダを並べている時に、老人が口を開いた。
「明日は、あなたの持っている服でいっとう上等なものを着てきなさい」
私は毎日、清潔なシャツに無難なジーンズを履いて工房に来ていた。
「なぜです?それでは仕事がしづらいではないですか」
老人はゆっくりと首を振った。視線をしっかり私の顔に貼り付けたまま。
翌日、私は白いドレスワンピースを着て工房を訪れた。それは洋裁学校に通っていた母が最後に作った作品だった。
「入りなさい」
老人は普段と変わらない格好と声の調子で私を出迎えたが、唯一違うのは私の手を取って室内へ招き入れたことだった。痛くはないが、逃げられはしない強さで握られた手。そのまま老人は作業場の中へ私を引っ張っていった。
作業場の中は他の部屋と比べ物にならないほど匂いが充満していた。まるで部屋自体が飴細工かのようだった。その甘い香りは私の頭を麻痺させる。だから、老人が私を椅子に座らせて、足先に触れてきても、何も思わなかったのだと思う。
老人は私の足に、まだ固まっていない熱い飴の塊をあてがった。ひどく熱かったが、私は何も言わなかった。呻き声一つ漏らさなかった。
鼈甲色の塊を、老人はピンヒールの形に整形していく。繊細な形が出来上がると、老人はヒール部分を幾重にもコーティングした。それが終わると、まだ溶けているヒール部分が折れてしまわないように、私の足を抱いた。その間、お互いに一言も言葉を交わさなかった。
「立ってみなさい」
どれくらい時間が経ったかわからないが、老人が口を開いた。
私は言われた通りに立ち上がる。履き慣れないピンヒールは私を不安定な気持ちにさせた。
鼈甲色のピンヒール。窓から入る日差しに照らされて、艶かしく光を反射する。私はこのヒールに、どこか儚い印象を抱いた。
「君は私の作品の一部になった」
老人がぼそりと言った。
「洋服のマネキン、アクセサリーのショウウィンドウ、本の為のブックスタンド…君の役割はそれだ」
老人は私の方を掴んで、耳元でそう囁いた。
その日から、私は作業場の隅に置かれたガラスの箱の中に座らされていた。家に帰らず、雑役もせず、やることといえば、時々花に水をやるように老人が私に与える食事だけだった。
ガラスケースの中では濃度の高い飴の香りが私の思考を奪っていた。逃げ出そうとも思わず、私はぼんやりと作業場の風景を眺めていたのだ。
何日経ったのかわからないが、その日が突然訪れた。作品のアイデアが浮かばないと、老人は暫く飴細工を作らなかった。老人は日がな一日紙に何かの図を描きつけ、それを丸めて捨てるということを繰り返していた。段々と薄れる飴の香り。私は段々と正気に戻っていった。
私は遠慮深く、ガラスをノックする。老人がこちらを見た。
「帰ります」
久々に発した私の声はか細かった。
「脱げないじゃないか、その靴は」
老人は事もなげに言って、また作業に戻ってしまった。
私はピンヒールに拘束された自分の足を眺めた。そして、ゆっくりとそれに自分の手を当てがった。そっと息を吸って、一思いにピンヒールを剥がす。ベリっという不快な音と共に、皮膚とピンヒールが剥がれ、水膨れだらけの私の足の裏は血塗れになった。
「脱げました」
顔を上げると、老人はこちらを血走った目で凝視していた。
「何をしているんだ」
側にあった何かの道具を持ってこちらに近づいてくると、気が狂ったようにガラスを割り始めた。
「何をしているだ。何をしているんだ」
ついにガラスの膜が消えて、老人の持った道具が私を刺さんとした時、私は走り出した。
工房の外は信じられないくらいの快晴で、シャッター街の寂しさを浮き彫りにしていた。
老人は後を追いかけて来なかった。地面についた血の跡を辿る事もしなかったらしい。
私は家へ着いて、息を吐く。ずっと呼吸をしていなかったような奇妙な気持ちになった。甘い匂いのしない部屋の空気がひどく心地よく、清潔な心地だ。
私はドレスワンピースを着たまま、リビングへ向かう。フローリングの床に血がつくのを気に留めず、ソファに深く腰掛けて、目を閉じた。目蓋の裏の暗い世界の中で、老人のあの視線を反芻する。
執着だけの視線。純粋だが、魅力はなかった。
就職活動が始まる前の大学生時代、私は母の作った服を売るネットショップのモデルをしていた。そこからヘッドハンティングされて、マイナー雑誌のモデルになった。様々な感情の篭る無数の視線が私に絡みついていた。親愛、憧憬、性愛…様々な視線を無遠慮に絡められた私の体に降り注がれるカメラのフラッシュ、それはどこまでも心地よかった。けれど、母が癌になってから、モデル活動を続けることは出来なかった。母子家庭だったから、私が入院費を稼がなければならなかった。バイトに明け暮れながら就職活動に奔走する日々は、私の心をすり減らしていった。そして、母が死んで、就職の目的が見出せなくなった私はどうしたらいいのかわからなくなった。だからだろうか、あの工房に惹かれたのは。適度に非日常なあの空間。甘い、香り。しかし、老人の用意したピンヒールは脱げなかった。ピンヒールの拘束は、老人の視線と強固に結びついて、他の視線を頑なに拒むだろう。それではいけない。私は、もっと色々な視線のなかに晒されたい。
私は戸棚に仕舞い込んだ雑誌を取り出す。それから、モデル場所のページを開いて、電話をかけた。
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