鴇色

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 自分を取り戻すまで、ややしばらくかかった。  彼の震えが収まり、ようやく落ち着いた様子になったと見て取り、背をポンポンと叩いて言った。 「コーヒー、飲むか」 「えっ! あんた、が!?」 「おい、馬鹿にするなよ」  バッと身体を離し、驚きを隠さない彼に苦笑を向ける。 「まあコーヒーメーカーだけどな」 「進歩してる……炭酸水しか無かったのに……」 「おい、いつの話をして……」  互いに動きが止まった。  そうだ。十年前だ。あれから十年経っているのだ。 「……そうか……」  俺は見ていた。映画も、ドラマも、コマーシャルやインタビューに答える彼も。……けれど彼は、十年前の、あの半日程度の俺しか知らない。  じんわりと目が合う。  見開いた瞳に、スクリーンで見るような鋭さは無かった。 「あんた、年取ったな」  泣き笑いのような、情けない顔。 「お互い様だ。おまえはえらくイイ男になった」 「……あんただって、イイおっさんになってる」 「そりゃ……うん」  イイおっさん。あまり褒められた気はしない。  けれど照れたような情けない顔で笑う人気俳優を見ていたら、どうでも良くなった。 「……座ってろ」  苦笑しながら言い、腰を上げて家に入る。台所に向かい、コーヒーメーカーに豆を入れていると「ここって、あんたの家?」彼も来て言った。 「うん、まあ……受け取らされた」 「買ったとかじゃなくて?」 「色々あったんだよ」 「どんな? いろいろって、どんな?」  コーヒーが落ちるまで、問われるままに話した。  驚くべきことに、彼は俺の仕事を把握していた。個展をやったあとに出した写真集も初版で持っていると聞いて、さらに驚いた。 「あれから、あんたの撮ったやつ見てから、よく写真とか見るようになって。今じゃちょっとした写真家オタクだよ。アレ見たとき、こういう写真を撮る人って他にもいるんだ、なんて思ってた」  コーヒーを手に縁側に戻り、並んで座る。  秋の夕陽を眺めながら、ぽつぽつと彼が問う。 「あの山の写真見て、あんただって分かった。あの寝顔の写真とかさ、ふざけんなって……でも、笑っちまったよ」  そこから俺の仕事を遡って見てくれていた。  だから俺は語った。その間に何があったのか。なにを考えたのか。  社長との出会い、会社になって仲間が増えたこと。最初はプレッシャーでしょっちゅう胃痛になっていた。ポートレイトや風景の仕事が増え、あのマンションには帰らなくなった。今はブツ撮りをしていないこと、今やってる仕事のこと────  彼もポツポツと語った。  あの後オーディションを受けまくった。  役を掴んでから旨いメシを食おうと、諦めたらあのマンションには行けないと、そう思っていた。  ようやく端役を掴んで、彼は何度もマンションに来てくれていた。しかし俺はいなかった。  おそらく急に忙しくなった時期だったのだろう。会社のために仕事をしなければと胃痛に悩まされながら必死になっていた頃。  出演したドラマの共演者の伝手で事務所を変わった。そこから少しずつ状況が変わった。  がむしゃらにやっていた。ドラマも、コマーシャルも、バラエティだって手を抜かなかった。  気付くと良い役が貰えるようになっていた。  探しても探しても見つからない写真家。けれど諦めない、そう考えて探し続け、気付くと写真オタクになっていた。  そうして手に取った写真集のひとつ。  なかなか良いなとめくって────その中の数枚が、手元にあるものと同じだと気づき、……しばらく息もできなかった。 「諦めないって、あんた言っただろ」 「……そうだな」 「諦めなきゃ、なんとかなるって、な。俺も分かった」  写真家がこの町に住んでいないことは分かっていた。それでもどうしても来たくなり、スケジュールの空きをついて、この町へふらっと来た。  そのとき町役場の掲示板に、俺の写真集が出たと掲示されていた。それを見ていたら、町人たちが展示する施設を作るという噂をしているのが聞こえ……  思わず役場に入り、プロダクションの名前を出していた。  あのスタジオや畑を購入したのも、ほぼ私費だった。俺がどんな顔をするかとワクワクした。  すぐにも逢いたかったけれど、なかなかスケジュールが調整できなかった。俺も海外を飛び回る生活になっていたし、タイミングが合わなかったらしい。 「で、今日は、あんたがいた」  ニッと笑った彼は腹が減ったと言い出し、勝手に台所へ入って行く。 「鍋もフライパンもある。やっぱ進歩してる。けど材料はなんもねーな! そこは相変わらず……」 「少しはある」  野菜や卵を貰っていたのでそれを出すと、手早くいくつかつまみを作った。なかなかの手並みに感心したら、ひどく嬉しそうに笑った。  冷蔵庫にあるおばちゃんの裾分けを出し、相変わらずストックしてあるビールと、誰かが置いていった焼酎も出して、二人だけの宴会になった。  食べながら飲みながら、この十年を語った。  ずっと聞きたかったこと、知りたいこと、伝えたいと思っていたこと……  互いに言葉は止まらない。  やがて酔ってきた彼が抱きついてきた。  相変わらずあまり酒が強くないようだが、若い頃より逞しくなった身体には厚みがある。不思議な気分になりながら、俺も酔いに任せて抱き返し、背中をポンポンと叩いたら、肩口に額を擦りつけて懐いてきた。  自分の性指向は公表していない。事務所に止められていると苦笑していた。  前の事務所の社長はどうしたと聞いたら、知らんと返された。  今好きな人はいるのか、そう聞いたら、 「あんたはバカか!」  いきなり怒鳴られた。  そして寝落ちする直前 「ずっと、あんたに会いたかった」  甘い声と表情で、そう言った。
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