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光明
この町へはじめて来たのは、三十を越えて少し経った頃。
あのとき、道ばたの花を撮ったのは、ふと気が向いただけのことだった。
それでも、金にならないシャッターを切ったのは久しぶりだった。
あれがきっかけとなって町に通うようになり、ただ写真を撮って二年近くが経過して、気づいた。
自分が飢えていたことに。
無自覚に安定した生活を失うことを恐れていたのかも知れない。
日々磨り減っていくなにかを埋め戻そうとしていたようにも思う。縋るような心持ちも、あったかもしれない。
だから、いかに些細であったとしても、あのとき野の花一輪に呼び起こされたなにかを無視することができなかった。
またここに来て、撮って、また来て────
……ここでなら、またなにかを掴めるのではないか。
そんな無意識が、この町に通わせていたのかも知れない。
通ううち馴染みの顔ができて、居心地良くなっていったのは、余録といったところか。
ある日、ひとりのじいさんに声をかけられた。
自分はあそこの山のオーナーだ。写真を撮るくらいならかまわないが、山菜や木の実を絶対に採るな、キノコにも手を出すなと、ひどく険しい顔で厳命され、失笑しそうになるのを押し殺した。
よそ者に対する警戒。山菜やキノコに興味ない者がこんなところに通うなどありえないと信じこんでいる頑迷さ。
面倒だと思ったし勘違いを笑い飛ばしたくはなったが、それを押し殺して愛想良く頷いた。
促されるまま念書まで書き、厳めしい顔を写真に撮らせて欲しいと頼むと、一気に機嫌が良くなった。
「カメラマンてえのはよく分からんな」
面倒なじいさんだとは思いつつ、微笑ましいような気分にもなった。若い頃なら怒鳴り合いに発展していただろうと考え、湧いて出たのは自嘲だった。年を取って俺も丸くなったもんだ。
そして老人の思い込みを笑い飛ばすことなどできないと思った。
思い込みに頭の先まで浸っていた自分自身に、気づいたからだ。
『俺はこんなものなのだ、諦めたのは間違いではない』
きれいごとなど、夢など、ひとりで生きていくのに必要ない。
冷静に考えろ。大人なんだから、社会人として────そんな呪縛に絡め取られることを自ら選んだ。いいわけなどできない。
写真を撮ることで糧を得ていること自体は肯定するしかない。ゆえに、そう自分に言い聞かせて……安心、したかったのだろうか。
けれどずっと、焦がれるような気分に追い立てられていた。それが焦燥と呼ぶべき感情だということに気づこうとすらせず、誤魔化すことばかり考えていたのではないか。
────あの町に通ったのはなぜだ?
衝動があったからだ。
────衝動を大事にすること。
それこそが、俺に足りなかっこと、なのではないのか。
衝動を覚えても、今までそれを押し潰してきていたのではないか。
学生の頃は視野狭く技術を磨く以外は不要と切り捨て、糧として写真を撮るようになってからはプロとして金にならない写真を撮るべきではない、などと……そう自分に言い聞かせ続けてきたのではないか。
職業として写真を撮ることと、衝動の赴くままに画を切り取ることは全く違う行為だ。若い頃ならともかく、今なら分かりきっていること。
そう。分かっていた、筈だった。
しかし無意識に目を逸らしていたのかも知れない。
おそらく自分を守るために。あのとき諦めた自分を肯定するには、そうするしかないと。
じいさんの許可を得て親しく挨拶を交わす町人が増え、あの町での行動がますます楽になった。
風景を写し撮る時間は、自覚を得たことでさらに重要になった。
だから────今日撮った画は、俺にとって確かに光明だったのだ。
なにかを掴めたような気がする。
といってもこれは端緒でしかない。ここから始めなければならない。結果としてなにが産まれ出るかなど分からない。だが今、この光を手放してはいけない。
そんな確信めいた思い。それだけが、確かに身のうちに産まれている。
「売れなくてもいい。評価されなくて良い。俺は納得いくものを撮れるようになりたいんだ。今度こそ諦めない」
「……ふうん……」
気の抜けたような彼の声に、いつの間にか熱く語っていたことに気づき、くちを閉じる。
「その女ってさあ、やっぱ有名な写真家になったわけ?」
「いや。少なくとも俺は名前を聞いたこと無いな。まだ写真を撮ってるかどうかも分からない」
「へえ。その程度のやつに負けちゃったんだ?」
「……写真家としての技量はあまり高くなかった。けれどあの感性をもっと研ぎ澄ませ、技術を磨いていけば……彼女は名を成しただろうな」
「ふうん」
ふう、と息を吐くのが助手席から伝わる。チラリと目をやると、なにか考え込むように目を伏せ、片手で毛先を弄っていた。
「……諦めない……かぁ……」
妙に乾いた声が、聞こえてくる。
俺はなにも返すことができず、ただ真っ直ぐ前を睨んでいた。
いくつめかの繁華街で店を探して、またも空振りに終わった。
あえてホームグラウンド、都心部は避けている。
それゆえになかなか見つからないと分かってはいるのだが、馴染みの店には行けない。彼に疑いを抱かせまいと思うからだ。
とはいえプロ仕様のプリントができる所はそう多くない。
肩にずっしりと疲れを感じ見上げると、いつの間にやら陽が落ち、空に夕闇色が広がろうとしていた。眉間を揉んで、無自覚にため息を漏らしていると、彼が言った。
「アンタんちってどこ?」
だいたいの住所を言い、三十分かからずに到着する距離だと付け加えた。彼に土地勘があるか分からなかったからだ。
「ん~~~、じゃあそこでイイよ」
「なにが」
意味が分からず問い返した声に返った声はため息混じりだった。
「アンタんちでいいって。プリントしちまおう」
「……え?」
思わず車を路肩に寄せ停車する。
助手席に目をやると、横顔は少し眉を寄せている。
「ちゃんとプリントできんだろ、アンタんちならさ」
「それは、できるが」
「もう探すのメンドイし、やっちまおう。ほら、車出せよ」
気のない声ではあった。チラリとも目線を寄越さない。
だが彼なりに、決意の籠もった言葉のように聞こえた。
その決意がどういった方向のものか分からない不気味さはあったが、店を探す苦行から解放される、助かったという思いの方が勝って、車を発進させた。
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