作業

3/4
前へ
/53ページ
次へ
「す、すまない。つい」 「いいけどさ、さっさと次やれよ」 「……次?」  呆けたような返事に、彼は目を細めて、クッと笑う。 「喋りながらできねーの?」 「いや、……できる」 「ならそうしなよ」  なぜだか彼が笑っている。笑った顔は初めて見たが、この顔もいい、と思わず見惚れてしまう。 「だからやれって」 「あ、ああ」  慌てて彼から目を引きはがし、作業スペースに腰を下ろしてマウスに手をかける。  彼の気配は背後から動かない。焦れたのか。早く終わらせろといいたいのか。プリント操作だけやっていれば早く終わるだろうと監視か? プレッシャーをかけているのか?  エアコンがきいてるのに背中に感じる気配に、プレッシャーを感じて汗が吹き出した。  大急ぎで全部プリントするだけで二時間以上はかかる。なのに得々と語って時間を無駄にしていたのだ。自分を殴り飛ばしたいような気分になる。  もしも彼が焦れて手を伸ばし、ちょっとした操作をしたら、今加工を入れたデータもすべて無いことになる。簡単にそうできる。  汗が止まらない。  しかし────呼び出した画に、また性懲りも無く引きこまれた。    森に一歩踏み込んだ逆光、影を帯びた顔の中、射貫くような眼差し、目に宿る光。『やめろ』と言いながら手を伸ばしたときの彼。  コントラストを緩めたら、もう少し表情が……つい、手は動いた。  そうして次々ファイルを開き、確認し、プリント操作をしていく。どの画もひどくイマジネーションを刺戟してくれる。ついつい弄りたくなる。  すぐに集中して唸り続けるプリンタの音も聞こえなくなり、色々やりはじめてしまっていた。 「……なあ」 「……っ、な、なんだ」  また彼を忘れていた。 「ここで見てていい?」  だが続いた言葉に目を見開き、背後を見る。 「あ、ああ。……もちろん」  ぼんやりした顔。なにを考えてるか分からない。こめかみから流れる汗を手の甲で拭いつつ、伸ばした彼の手に目が行く。腕の先、指は俺を通り越している。 「これ、今の。なにやってんの?」  指で示された画面には、たった今作業を加えた彼の姿があった。 「ああ、光量を調整してみたんだ」 「コウリョウ?」 「一部だけ変えることこともできる。他に、こんなことも……」 「え、てかなに? 今の」 「これはな、コントラストを弄ったんだ。ほら、こういう風に……」 「わっ、ぜんぜん違う」 「だろ? 色相なんかもちょっと弄るだけで、……ほら、こうなる」 「わ、おもしれー」  作業を進めながら会話が産まれていた。クルマの中の、あの重々しい空気はすっかり払拭されている。  調子に乗ってさらに色々やってみせると、「すっげーな」などとはしゃぐような声を出し、ときおり声を上げて笑った。  こっちまで楽しくなってくる。  作業に没頭するに、人の声は邪魔だ。常なら無視して無言で作業を続ける。だが彼の存在は無視できない。  それでもいつしか手元と画面に意識が持って行かれ、会話も無くなっていた。 「はあ?!」  素っ頓狂な声にビクッと手元が狂い「なんだ!?」と声を上げた。 「鍋も調味料もねー! なんでだよっ!」  彼の声だ。また忘れてしまっていた。  声はキッチンから聞こえてくる。ため息混じりに腰を上げ、キッチンへ向かった。彼はあちこちを開いては閉じ、なにやら憤っている。 「なんもねー! どうやって生きてるんだよっ!?」 「あ~、たいてい外食で済ませるんだ」 「つっても限度ってモンがあんだろ! うわ冷蔵庫も炭酸水とビールしかねえ! マジかよ、広いのにもったいねー馬鹿じゃねーの?」 「……悪かったな」  勝手にひとの家を歩き回って勝手に憤っている。こっちもムッとした。どんな生活してようと、文句を言われる筋合いは無い。  一瞬目が合うと、彼もムスッとくちを結んでスマホを弄りはじめ、偉そうに言う。 「しゃーない、ピザ頼むからアンタ払えよ」 「ああ、なんでも好きなもの頼め」 「よっしゃ、んじゃーアイスと、サイドメニューも! 唐揚げと~、なにこのラザニアつの、めちゃチーズ乗ってね?」  ラザニアを知らんのか、と呆れたことで少し落ち着いた。ここで飲み食いはほとんどしない。客人……かどうかは置いておくとしても、水一杯出してなかったのはこちらの落ち度だ。 「ああ……気づかず悪かった。俺も腹減ってるな」 「だろ? もう七時過ぎてんだもん、腹も減るよ」 「食いたいと思ったもの全部注文しちまえ」 「あ~喉渇いた……のにコップも無い! なんでだよっ!」 「ビール飲んで良いぞ」  また怒り出しそうだったのでひとこと付け加えると、彼はひとつ息を吐き、肩を上下させて何度もウンウンと頷きながら冷蔵庫を開いた。 「……それしかねーもんな。まじでマヨすら無いってどうなってんだよ。アンタもビール飲む?」 「いや、炭酸水くれ」 「りょーかい。つうかコップとか皿くらい置いとけよマジで」 「あ~、分かった分かった、そのうち用意する」 「いつだよ、そのうちって」  冷蔵庫から出した缶ビールを飲みながら、彼は眉寄せてスマホに集中し始めた。 「デザートも食おっと。めちゃ腹減りだっつの」  炭酸水はどうした、と思いつつ。  作業スペースに戻って黙々と作業を進めるのだった。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加